9代藩主による制度改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)
「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「9代藩主による制度改革」の解説
9代藩主康哉が、導入した新たな俸禄制度は、家柄に応じて支給した持高を低めに抑制して、その役職に就任期間中だけに支給する役職手当を高め定めたものであった。足高の制とは異なる「持高プラス役職手当」を定めたことは、本藩長岡藩には見ることができない支藩小諸藩における画期的・合理的な制度であり、有能な人材を登用しやすくなった。 従来の役職手当は不明瞭で、同じ役職に就任しても、家臣によって、役職給が異なることも散見されていたが、9代藩主康哉は、家老手当は100石(江戸詰めには130石)、用人手当は80石(江戸詰めにも80石)などすべての役職手当てを明文化した。 役職手当ての整備に伴い原則固定である世襲持高は減石され、家老連綿の家柄は、150石から230石、同じく用人連綿の家柄は120石から135石、同じく番頭連綿の家柄は100石から115石とされた(以下、省略)。これに家の格式ごとに従前通り、給人地が給付されていた。ただし、大政奉還・幕府滅亡の前年である慶応3年、牧野隼人進成聖は、約1年間だけ持高250石となった。 このほか原則として、下級士分以下には、人扶米を支給した(下級士分の一部と、足軽以下には、9代藩主による改革前から人扶米は支給されていた)。人扶米は、出仕しなければ支給されなかった。例外的に、加恩的な意味合いで、中堅士分の数家に、人扶米が支給されていた。また引き籠りの性癖もしくは病気があった上級士分の本間氏に対して、出仕を促す意味で、人扶米が支給されたことがある。それが、本間氏において、後に既得権化したと見られる。 9代藩主の死後、遺体も乾かないうちから(今泉著、河井継之助伝にある表現)、お家騒動がはじまったということは、こうした改革が、お家騒動の土壌を作り、必ずしも成功したとは、言い難い部分がある。家臣たちから、改革を、プラス思考で、受け入れられず、立身出世の機会を争って、収まりがつかなくなったという言い方もできる。
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