享保の相対済令
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享保4年にこの法令が出されたのは、「金銭に絡む訴訟が増え、評定所もその処理にかかりきりになり、本来の仕事がほとんどできなくなっているため」とされている。事実、前年の享保3年(1718年)に持ち込まれた公事(民事訴訟)は35790件、その中で金銭トラブルにまつわる物は33037件で、それ以外が2753件。このうち、年内に処理できたのが約3分の1の11651件で、残りは全て翌年回しにされた。 この法令が「借金に苦しむ幕臣を助けるために出された」という説があるが、相対済令が発令された4日後の11月13日には「自分の利欲のために借金を返さないものがあれば取り調べた上で処罰する」という説明を加え、翌享保5年(1720年)には「相対済令は金銭に関わる訴訟を受け付けないだけで、借金を返さないでいいというわけではない。返さなくてもよいと考えている者がいれば訴え出るように」と、あくまで借金の踏み倒しを許すわけではないことを重ねて強調している。 実際に返済を渋った幕臣がいたものの、それに対し貸主(債権者)たちは江戸城の門前で待ち構え、債務者である旗本・御家人が業務を終えて下城すると旗を振りながら「借金を返せ」と喚き立て、それを無視して帰ろうとする者には、その屋敷までついていき、門や玄関の前に座り込んで催促し続けるという手段に出た。町奉行の大岡忠相は、「これは武士の体面を無視したやり口であり、捕えて牢屋に入れるべき」と同役の諏訪頼篤と連名で吉宗に上申したが、「悪いのは借金を返さない旗本たちなので町人を罰するにはおよばない」と却下している。
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