享保の大飢饉と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/24 10:44 UTC 版)
享保17年(1732年)の享保の大飢饉で、最多の3500人にも上る餓死者を出した松山藩は幕府の不興を買い、同年12月に藩主松平定英へ裁許不行届として差控の処分を受ける。翌享保18年(1733年)4月に差控を解かれた藩主定英は、5月に急死した。新たに藩主となった松平定喬は手始めに、隠居の身であった奥平貞国(久兵衛)に家老再勤を命じ、貞継ら飢饉当時の藩政指導者の処分を行った。そこでの貞継は、領内の困窮を尻目に大坂で遊興に耽っていたとして、家老を罷免され、久万山に蟄居を命じられる。享保19年(1734年)、嫡男貞幹が新知1500石で家名存続を許された。享保21年(1736年)4月、蟄居処分を解かれ大坂表に立ち退く。
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