主な研究史、調査史とは? わかりやすく解説

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主な研究史、調査史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:45 UTC 版)

セイバル」の記事における「主な研究史、調査史」の解説

1892年グアテマラ政府によって、フェデリコ・アルテス (Fedrico Artes) が、シカゴ万博博覧会のグアテマラ・ブースに出品する目的で、マヤ石碑型どりを行うためにペテンマヤ遺跡踏査行ったのが本格的な学術調査はじまりであったアルテスは、アルフレッド・モーズレーAlfred Maudslay)の下で型どり技術習得したゴルゴニオ・ロペス(Gorgonio Lopez)とセイバル状況に詳しい地元ガイドのエウセビオ・カノ(Eusebio Cano)をつれてフローレスからサヤスチェ経由で、遺跡目前遺跡名の通称となっているセイバの木の近く通ってセイバル訪れた5 - 6本ほどの石彫型どり行い翌年グアテマラシティにある新聞社「エル・グアテマラティコ」誌(El Guatemalateco)に持ち込んで記事掲載した。ところで、アルテスは、元々の通称であったセイバの木のあるところ」という意味の "Ceibal" という名前について、この素晴らし遺跡ふさわしくない考えていた。それで、別のよい名前はないかカノ相談したところ、セイバル近辺生息するの名を使用したらどうかと提案したのが採用されシカゴ万博では、セイバルではなく "Saxtanquiqui" という遺跡名で石彫レプリカが型から起こされ展示された。 1895年7月ハーバード大学ピーボディ博物館助手であったテオベルト・マーラーTeobert Maler)がカノと共にセイバル訪れグループA地図作製し、同グループ石碑クリーニング行い写真撮影行ったマーラー1896年ドイツ語による報告書刊行した1905年にもマーラーセイバル踏査行い、自らが作成した地図部分的に修正加えた1906年刊行した英語の報告書では "Seibal" の綴り使ったため、英語圏研究者は "Seibal" の綴りを使うようになった1908年訪れた時には石碑について1番から11番までの番号をつけ、克明に写真撮影を行うとともに詳細な記述行ったマーラーは、破片になっている石碑についても、無文のものと何かが刻まれているものとに分類行い、表採した遺物についても記述している。 1914年1915年に、ハーバード・スピンデン(Harbert Spinden)とシルベヌス・モーレイ(Sylvanus G.Morley)が踏査行って建造物群まとまりグループA、B、C、Dと名称をつけた。モーレイは、グループA中央プラザ」の構築物A-14の西側正面にある「象形文字階段」及びグループD南方2kmにある一組プラザをもつ小規模な建造群であるグループB遺構群を確認しその際石碑12号発見した。またモーレイは、銘文良好に残った8号から11号刻まれ長期暦日付を9.14.10.0.0.から10.2.0.0.0.であることを読み取りセイバルが、古典期終末期センターであったことを明らかにした。現在では、セイバル中心部分について言及する場合は、グループA、C、Dの名称のみが使われる傾向にある。 1948年バーナム・ブラウン (Barnum Brown) が訪れ13号石碑発見した1961年明けると、ジョン・グラハムとテモセイ・フィスク(Timothy Fiske)がアルタル・デ・サクリフィシオスキャンプ設営した際に、セイバルにも訪れている。グラハムらは、マーラーモーレイ地図載っていないマウンドや、14 - 16石碑発見したほか、いくつかの建築グループマヤの他の祭祀センター見られるような「堤道」で結ばれていること、そしてその「堤道」が交差してグループC北端途切れていることを発見したグラハムは、同じ年の乾季リチャード・アダムスと再びセイバル訪れ新たに17号18号石碑発見したアダムスは、グループA詳細な地図作製するとともに、6地点試掘(テストピット)調査行い土器サンプル土層サンプル採取行ったアダムスは、このテストピットによる採取したサンプルからセイバル先古典期中期から古典期後期後半にまで及ぶおおよそ土器編年把握成功した1964年から1968年まで、ゴードン・R・ウィリー (Gordon R.Willey) の率いハーバード大学調査隊が本格的かつ集中的な踏査および図化と発掘調査行った。現在この遺跡について知られる知見はこのときの調査よるもので、セイバル先古典期中期初頭から古典期終末まで盛衰繰り返したことが明らかにされた。このときの調査報告書は、1970年代から順次刊行され1975年にジェレミー・サブロフによる土器に関するもの、1982年にレディヤード・スミスによる建造物と「供納穴」に関するものとサブロフらによる良質(精胎土オレンジ土器に関する分析掲載したもの、1990年ジョン・グラハムによる石碑記念碑に関するものおよびゲアー・トゥアーテロによる埋葬に関するものなどが順次刊行されている。 その後アリゾナ大学猪俣健団長とする多国籍学際的な調査隊によってハーバード大学調査隊では行われなかった排土ふるいにかけて微細な遺物把握することまでめざしたきめこまかな調査2005年ら行われている。この調査では、セイバル最大ピラミッドA-24基壇調査先古典期中期前半レアルReal)相の実態がより明らかになったことで早くも注目されている

※この「主な研究史、調査史」の解説は、「セイバル」の解説の一部です。
「主な研究史、調査史」を含む「セイバル」の記事については、「セイバル」の概要を参照ください。

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