主な研究史、調査史
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1892年にグアテマラ政府によって、フェデリコ・アルテス (Fedrico Artes) が、シカゴ万博博覧会のグアテマラ・ブースに出品する目的で、マヤの石碑の型どりを行うためにペテンのマヤ遺跡の踏査を行ったのが本格的な学術調査のはじまりであった。アルテスは、アルフレッド・モーズレー(Alfred Maudslay)の下で型どりの技術を習得したゴルゴニオ・ロペス(Gorgonio Lopez)とセイバルの状況に詳しい地元ガイドのエウセビオ・カノ(Eusebio Cano)をつれてフローレスからサヤスチェ経由で、遺跡の目前で遺跡名の通称となっているセイバの木の近くを通ってセイバルに訪れた。5 - 6本ほどの石彫で型どりを行い、翌年グアテマラシティにある新聞社「エル・グアテマラティコ」誌(El Guatemalateco)に持ち込んで、記事を掲載した。ところで、アルテスは、元々の通称であった「セイバの木のあるところ」という意味の "Ceibal" という名前について、この素晴らしい遺跡にふさわしくないと考えていた。それで、別のよい名前はないかとカノに相談したところ、セイバル近辺に生息する鳥の名を使用したらどうかと提案したのが採用され、シカゴ万博では、セイバルではなく "Saxtanquiqui" という遺跡名で石彫のレプリカが型から起こされ展示された。 1895年7月、ハーバード大学ピーボディ博物館の助手であったテオベルト・マーラー(Teobert Maler)がカノと共にセイバルを訪れ、グループAの地図を作製し、同グループの石碑のクリーニングを行い、写真撮影を行った。マーラーは1896年にドイツ語による報告書を刊行した。1905年にもマーラーはセイバルの踏査を行い、自らが作成した地図に部分的に修正を加えた。1906年に刊行した英語の報告書では "Seibal" の綴りを使ったため、英語圏の研究者は "Seibal" の綴りを使うようになった。1908年に訪れた時には、石碑について1番から11番までの番号をつけ、克明に写真撮影を行うとともに詳細な記述を行った。マーラーは、破片になっている石碑についても、無文のものと何かが刻まれているものとに分類を行い、表採した遺物についても記述している。 1914年と1915年に、ハーバード・スピンデン(Harbert Spinden)とシルベヌス・モーレイ(Sylvanus G.Morley)が踏査を行って、建造物群のまとまりにグループA、B、C、Dと名称をつけた。モーレイは、グループA「中央プラザ」の構築物A-14の西側正面にある「象形文字の階段」及びグループDの南方2kmにある一組のプラザをもつ小規模な建造群であるグループBの遺構群を確認し、その際石碑12号を発見した。またモーレイは、銘文が良好に残った8号から11号に刻まれた長期暦の日付を9.14.10.0.0.から10.2.0.0.0.であることを読み取り、セイバルが、古典期終末期のセンターであったことを明らかにした。現在では、セイバルの中心部分について言及する場合は、グループA、C、Dの名称のみが使われる傾向にある。 1948年、バーナム・ブラウン (Barnum Brown) が訪れ、13号石碑を発見した。 1961年が明けると、ジョン・グラハムとテモセイ・フィスク(Timothy Fiske)がアルタル・デ・サクリフィシオスにキャンプを設営した際に、セイバルにも訪れている。グラハムらは、マーラーやモーレイの地図に載っていないマウンドや、14 - 16号石碑を発見したほか、いくつかの建築グループがマヤの他の祭祀センターに見られるような「堤道」で結ばれていること、そしてその「堤道」が交差して、グループCの北端で途切れていることを発見した。グラハムは、同じ年の乾季にリチャード・アダムスと再びセイバルを訪れ、新たに17号、18号石碑を発見した。アダムスは、グループAの詳細な地図を作製するとともに、6地点の試掘(テストピット)調査を行い、土器のサンプルと土層サンプルの採取を行った。アダムスは、このテストピットによる採取したサンプルからセイバルの先古典期中期から古典期後期後半にまで及ぶおおよその土器編年の把握に成功した。 1964年から1968年まで、ゴードン・R・ウィリー (Gordon R.Willey) の率いるハーバード大学の調査隊が本格的かつ集中的な踏査および図化と発掘調査を行った。現在この遺跡について知られる知見はこのときの調査によるもので、セイバルが先古典期中期初頭から古典期終末まで盛衰を繰り返したことが明らかにされた。このときの調査の報告書は、1970年代から順次刊行され、1975年にジェレミー・サブロフによる土器に関するもの、1982年にレディヤード・スミスによる建造物と「供納穴」に関するものとサブロフらによる良質(精胎土)オレンジ土器に関する分析を掲載したもの、1990年にジョン・グラハムによる石碑と記念碑に関するものおよびゲアー・トゥアーテロによる埋葬に関するものなどが順次刊行されている。 その後、アリゾナ大学の猪俣健を団長とする多国籍で学際的な調査隊によってハーバード大学調査隊では行われなかった排土をふるいにかけて微細な遺物を把握することまでめざしたきめこまかな調査が2005年から行われている。この調査では、セイバル最大のピラミッドA-24の基壇の調査で先古典期中期前半のレアル(Real)相の実態がより明らかになったことで早くも注目されている。
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