中曽根政権の補佐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
1982年11月、首班指名を受けた中曽根康弘に請われて、第1次中曽根内閣で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む一方で内務省の後輩として後藤田の手腕と実力をよく知る中曽根本人の強い求めによるものであった。中曽根は、自派の人材難に加え、行政改革の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知しており高い情報収集能力を持つ後藤田を必要としたのである。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。 官房長官となった後藤田は、1982年12月のソ連による対日諜報活動・間接侵略が暴露されたレフチェンコ事件や、1983年1月の中川一郎の自殺事件、同年9月のソ連軍による大韓航空機撃墜事件、三原山噴火による住民の全島避難 の際に優れた危機管理能力を発揮。1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故当時は、初代総務庁長官として、首相・中曽根を支えた。 中曽根内閣が最大の課題とした行政改革では、1983年12月に行政管理庁長官、1984年7月に新設された総務庁長官として、3公社民営化などを推進した。第2次中曽根第2次改造内閣・第3次中曽根内閣では内閣官房長官に再任され、単なる内閣官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。 イラン・イラク戦争終結に当たり、海上保安庁の巡視船または海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し、中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。そしてそれは、自衛隊は絶対に海外に出させない、という後藤田の戦争反対の信念でもあった。中曽根政権の5年間、一貫して閣僚を務めたのは後藤田だけである。 今日では明らかとなっているが、1987年(昭和62年)の東芝機械ココム違反事件では、通商産業省は半ば黙認し、公訴時効になりかけた外為法違反を、外事課・生活安全課へ圧力をかけて、事件とさせたのは後藤田である。日米の摩擦が激化、中曽根首相が訪米した時期と併せての政治的判断であった。 こうした後藤田の重用は、自民党内、なかんずく出身母体の田中派の議員の激しいねたみを招き、「向日葵」というあだ名を付けられることもあった。のちに首相となった橋本龍太郎は、後藤田よりかなり年下だが、当選回数が自分より遥かに少ない事から、一時期「後藤田クン」と呼び、内務省のエリート官僚である後藤田の誇りを傷つけたという。そして、田中派の膨張策の中で後藤田ら外様の議員が幅を利かせていることや党内最大派閥であるにもかかわらず三木以降総裁を輩出できていないことへの田中直系の議員らからの不満の高まりを背景に、小沢一郎、梶山静六、羽田孜、渡部恒三ら中堅若手は、世代交代を標榜する竹下登と金丸信を担いで1984年に創政会を旗揚げして事実上の分派を形成した。この事態に激怒した田中は、その直後に脳梗塞で倒れ派閥の制御ができなくなった。後藤田自身は、田中派が竹下派と二階堂進グループに分かれた際にどちらにも与せず、無派閥となった。
※この「中曽根政権の補佐」の解説は、「後藤田正晴」の解説の一部です。
「中曽根政権の補佐」を含む「後藤田正晴」の記事については、「後藤田正晴」の概要を参照ください。
- 中曽根政権の補佐のページへのリンク