中曽根政権へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:15 UTC 版)
首相就任以来、一部マスコミからは角影内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。伊東の後任で外相に就いた園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。メディアにとっても「寝耳に水」の事態であった。中曽根は1982年秋に渡邉恒雄に電話で「首相が中国から帰ったら政権を禅譲してくれそうだ」と言っていた。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べたが、不出馬の背景についてはそれほど明確に語っていない。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたこと、昭和59年度の赤字国債脱却目標が困難になったことなど、内政・外交の行き詰まりも背景にあるとされている。内閣官房長官だった宮沢喜一は退陣後に「なぜあそこで辞めたのですか」と何度となく鈴木に聞いた。答えはいつも「大政党の政権交代は平和裏に動くべきものだ。党内がそれに反する動きになってはいけないと考えた」だった。日本経済新聞で連載した「私の履歴書」で宮沢はこう記していた。一方で、外遊のたびに首相臨時代理に中曽根康弘を指名して後継候補であることを示し政争の芽を予め摘んでおくなど、引き際の調整力は巧みであった。首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問。
※この「中曽根政権へ」の解説は、「鈴木善幸」の解説の一部です。
「中曽根政権へ」を含む「鈴木善幸」の記事については、「鈴木善幸」の概要を参照ください。
- 中曽根政権へのページへのリンク