中曽根派入り
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比較的ハト派が多かった当時の参議院自民党の中にあって、「タカ派の武闘派」として頭角を現す。1981年に設立されたみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会では初代事務局長を務めた。1982年、玉置が青嵐会に参加していたことが縁で、自由民主党総裁選挙において中川一郎を出馬させるべく参議院での推薦に集めに奔走して、総裁選に立候補をさせる。しかし、惨敗。 1983年(昭和58年)1月9日、中川は自殺。生長の家の二代目総裁、谷口清超の仲介で中曽根派に入る。参議院での中曽根派の勢力拡大に力を発揮。1986年、総理大臣中曽根が自らの政治生命をかけた死んだふり解散による衆参ダブル選挙では自民党全国組織副委員長として、中曽根の全国遊説すべてに同行し、首相演説の前座を務めた。玉置の死後、参議院自民党国会対策委員長に就任してから日本社会党・民社党などの野党議員にも人脈を広げ、自身の影響力を参議院全体に拡大した。 1983年、生長の家は参議院の比例区導入、優生保護法改正の頓挫により、政治運動から手を引く。玉置和郎は早川崇の後継として衆議院に鞍替えするが、直腸癌で死去。 村上は豊明会中小企業政治連盟(豊政連、KSD中小企業経営者福祉事業団(理事長古関忠男)関連の政治団体)を支持母体とした。 1991年4月、中小企業経営問題議員連盟(豊明議連)が発足、同議連の幹事長に就任。のち会長となる。更にKSDによる「国際技能工芸大学」(ものつくり大学)設立構想を支援する「国際技能工芸大学設立推進議員連盟(KGS議連)」会長にも就任。
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