中曽根内閣との闘いとは? わかりやすく解説

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中曽根内閣との闘い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 08:47 UTC 版)

万場世志冶」の記事における「中曽根内閣との闘い」の解説

1986年昭和61年)は、昭和天皇即位から丁度60年目に当る記念すべき年であり、この前年の1985年昭和60年11月から、万場所属する反憲学連は「天皇陛下御在位60年奉祝運動」に取り組んだ万場昭和天皇事跡描いた映画天皇陛下御在位六十年を寿ぐの上映会を大学内外次々と開催している。 しかし、それもつかの間この後万場たちを激怒させる事件が、中曽根内閣によって次々と惹き起こされるのである。 まず1986年昭和61年5月日本の伝統重視する高校歴史教科書最新日本史』の記述が、文部省現在の文部科学省)による検定終了後中国韓国からの批判受けた政府はこれに応じ検定終了後教科書異例書き換え命じてきたのであるまた、これに続いて同年8月15日終戦記念日には、中曽根中国からの批判に「配慮」するとの理由で、靖国神社参拝自体見送った戦後歴代首相例大祭終戦記念日に必ず毎年靖国神社参拝していたが、中曽根はこれを初め中止した以降小泉純一郎首相登場まで首相の靖国神社参拝は全く行われなくなるのである橋本龍太郎誕生日一度だけ参拝したが、中国批判を受け以降中止)。 万場反憲学連近畿ブロックは、この時も学生遊説隊を組織して三度近畿一円をまわり、靖国問題、『最新日本史問題等における政府阿諛追従外交について訴えた一連の事件はこれに留まらなかった。9月藤尾正行文部大臣が『文藝春秋誌上で「(日韓併合は)韓国にも応分責任があった」と主張したことに対し韓国政府激しく反発したのである中曽根首相直ち藤尾文相辞任迫り藤尾がこれを拒否する即刻罷免してしまう。 「大臣の首は外国抗議前にそんなに軽いものなのか?!」。中曽根相次ぐ暴走」を重く見た反憲学連中央委員会は、首相及び関係機関宛て抗議文を提出すると共に全国動員中曽根内閣糾弾実力行動に出ることを決定万場上京し韓国大使館首相官邸周辺機動隊激しく衝突した折りしも韓国の崔外相来日中であり、反憲学連デモ隊鋒矢型にスクラム組んで警官隊警備網を突破、崔外相の車へ向けて殺到したが、次々と押し寄せる新手機動隊行く手阻まれた。

※この「中曽根内閣との闘い」の解説は、「万場世志冶」の解説の一部です。
「中曽根内閣との闘い」を含む「万場世志冶」の記事については、「万場世志冶」の概要を参照ください。

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