中曽根内閣との闘い
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1986年(昭和61年)は、昭和天皇の即位から丁度60年目に当る記念すべき年であり、この前年の1985年(昭和60年)11月から、万場の所属する反憲学連は「天皇陛下御在位60年奉祝運動」に取り組んだ。万場も昭和天皇の事跡を描いた映画「天皇陛下-御在位六十年を寿ぐ」の上映会を大学の内外で次々と開催している。 しかし、それもつかの間、この後も万場たちを激怒させる事件が、中曽根内閣によって次々と惹き起こされるのである。 まず1986年(昭和61年)5月、日本の伝統を重視する高校歴史教科書『最新日本史』の記述が、文部省(現在の文部科学省)による検定終了後に中国、韓国からの批判を受けた。政府はこれに応じ検定終了後の教科書に異例の書き換えを命じてきたのである。 また、これに続いて同年8月15日の終戦記念日には、中曽根は中国からの批判に「配慮」するとの理由で、靖国神社の参拝自体を見送った。戦後、歴代首相は例大祭か終戦記念日に必ず毎年靖国神社を参拝していたが、中曽根はこれを初めて中止した。以降小泉純一郎首相の登場まで首相の靖国神社参拝は全く行われなくなるのである(橋本龍太郎が誕生日に一度だけ参拝したが、中国の批判を受け以降中止)。 万場ら反憲学連近畿ブロックは、この時も学生遊説隊を組織して三度近畿一円をまわり、靖国問題、『最新日本史』問題等における政府の阿諛追従外交について訴えた。 一連の事件はこれに留まらなかった。9月、藤尾正行文部大臣が『文藝春秋』誌上で「(日韓併合は)韓国にも応分の責任があった」と主張したことに対し、韓国政府が激しく反発したのである。中曽根首相は直ちに藤尾文相に辞任を迫り、藤尾がこれを拒否すると即刻罷免してしまう。 「大臣の首は外国の抗議の前にはそんなに軽いものなのか?!」。中曽根の相次ぐ「暴走」を重く見た反憲学連中央委員会は、首相及び関係機関宛ての抗議文を提出すると共に全国動員で中曽根内閣糾弾の実力行動に出ることを決定、万場も上京し韓国大使館や首相官邸周辺で機動隊と激しく衝突した。折りしも韓国の崔外相が来日中であり、反憲学連のデモ隊は鋒矢型にスクラムを組んで警官隊の警備網を突破、崔外相の車へ向けて殺到したが、次々と押し寄せる新手の機動隊に行く手を阻まれた。
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