中国の日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:26 UTC 版)
中国の日記は、直接的・間接的に日本の日記の出現に影響を与えた。以下、玉井幸助『日記文学概説』、曾沢太吉「『日記』は果して中国からの借用語か」(『国語国文学』27-10)による。 中国における「日記」の語の初見は、後漢の時代に活躍した学者王充の著した『論衡』の巻十三効力篇に「夫文儒之力、過於儒生、況文吏乎、然能挙賢薦士、上書日記也、能上書日記者文儒也」とあるものである。ここにみえる「日記」について、玉井は「学者が研究の為に資料を蒐集して之を整理し記述したもの」として、後代中国において主として日記と呼ばれた「学者が研究の為に抄録した書及び門下の修学に資する為に記録した書、更に村塾に於て童蒙に課する教科書の如きもの」の起源とされている。玉井によれば、以後中国において日記の名を持って著された作品は、これらのものの他は随筆・紀行の類が中心であり、日次記としての日記は日本に比較して極めて数が少ないという。 実際に作品が残され始めるのは、「日記」の語の出現から約千年以上たった宋代以後のようである。特に日次記としての日記で最も古いものは、宋代の詩人黄庭堅の『宜州家乗』で、彼の没年である崇寧4年(1105年)正月元日から没する前の月である8月29日までの日記である。次いで元の郭天錫日記で、至大元年(1308年)8月27日から翌年10月30日までの日記である。以後明代では「日所歴夜必記之」と冒頭に記された馮夢禎の快雪堂日記、李日華の味水軒日記などがあり、これらはいずれも1年乃至10数年くらいの比較的短いものが多い。清代になると、残存数も増加するとともに生涯にわたって記される大部のものも出現してくる。 中国では、周代まで遡れるかは疑問にしてもかなり古い時代から、国家・諸侯などには、その言行を記録する専門の官職(史官)が設置されていた。起居注とは、そのような史官によって記録された皇帝の言行の記録であり、天命を受けた皇帝(天子)の動きはそのまま天下国家の動きであるとする中国古来の思想が、その作成の背景である。国家の制度としては隋・唐の時代に完成した。現存最古のものは明代万暦・泰昌・天啓三代のものであり、それらは日次記の形態をとっている。ただし平安時代には、一部日本にも伝来していたらしく、平安中期に作成された『日本国見在書目録』には、起居注家という項目に「晋起居注」三十巻・「大唐起居注」三巻があげられている。 隋・唐以後の中国の歴代王朝では、これら歴代皇帝の起居注などを材料として実録(天子一代の事蹟を編年体で記録したもの)が編纂され、さらに次の王朝の時に正史にまとめられた。日本でも、単に書物としての起居注ばかりでなく、律令制度その他様々な文物の移入とともに中国の歴史編纂の方法を学び、国家組織の整備に伴い、国史の編纂にも着手し始めた。
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