隋唐の時代
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近年、「隋室楊氏と唐室李氏は、鮮卑であったが、漢人に君臨する皇帝となったために、後世、本来漢人であったように系譜を偽作したのだ」と主張する日本人論客が少なくないが、一般的にはあくまで皇后や血縁に鮮卑族の女性がいたという認識が学界の定説である。 こうした主張をする森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか」という質問に対して、「唐の王族李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません」と回答している。
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隋唐の時代
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大業中(605年 - 618年)、疏勒王の阿弥厥(中国語版)は、隋に遣使を送って朝貢した。 貞観中(627年 - 649年)、西突厥の可汗は娘を疏勒王に娶らせた。 貞観9年(635年)、疏勒国は唐に遣使を送って名馬を献上した。 貞観22年(648年)、太宗は安西都護府を亀茲城に移し、郭孝恪を安西都護に任命して于闐・疏勒・碎葉を統領させ、これを「四鎮」とした。 貞観23年(649年)2月、西突厥の乙毘射匱可汗(在位:641年 - 651年)が唐に求婚してきたので、太宗はこれを許し、詔令で亀茲・于闐・疏勒・朱倶波・葱嶺の5国を分割して聘礼(結納品)とした。 西突厥の阿史那弥射と阿史那歩真には人心がなく、部下に怨まれ、遂に思結都曼が疏勒・朱倶波・渇槃陀の3国を率いて叛き、于闐国を撃破した。高宗は詔で左驍衛大将軍の蘇定方にこれを討たせ、思結都曼の兵は馬頭川で保つ。顕慶5年(660年)、蘇定方はこれを撃ち降す。 開元16年(728年)、玄宗は遣使を送って、正式に疏勒王の裴安定(中国語版)を疏勒王に冊封した。 天宝12載(753年)、疏勒王の裴国良(中国語版)が唐に入朝し、玄宗は折衝都尉を授け、紫袍・金魚を賜う。 以後、吐蕃・唐・回鶻(ウイグル)と支配者が交替し、10世紀後半にはテュルク系イスラム王朝のカラハン朝に征服され、仏教王国であった疏勒はイスラム教に改宗することとなる。
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