隋唐の成立と朝鮮半島情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)
589年に隋が中国を統一し、長きに亘って続いた南北朝時代が終わると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。百済は589年にいち早く使者を建てて隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努め、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに参加した。しかし、隋軍を撃退した高句麗は百済領への侵攻を行うようになり、百済は隋に対して更なる高句麗征討を要請した。一方で新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、更に倭国とも協力した。602年に百済は新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)を攻撃し、倭国は「任那の調」の実施を求めて591年と602年に筑紫への駐兵を行い新羅への軍事的圧力をかけた。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見える。 北方では、高句麗が突厥との同盟を意図したことから関係が悪化していた隋が、611年、613年、614年の3回に亘り高句麗への遠征を行ったがこれを制圧することはできなかった。度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から618年には隋朝が倒れ、唐にとって代わられた。百済は611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領した。624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けている。
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