中国の文献に登場する数値
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:30 UTC 版)
「チベット動乱」の記事における「中国の文献に登場する数値」の解説
中華人民共和国刊行の文献には、チベット動乱における地方ごとの個別事例として、兵士や一般民衆に対して相当規模の殺害が生じていたことを述べる記録が多数出版・公刊されている。以下すべて毛里和子 1998の第八章「一九五九年チベット反乱再考:エスノ・ナショナリズムの諸相(三)」(pp.251-292)で紹介されている事例。 カム地方における「反乱」と「鎮圧」 1956年末に第1次蜂起(中国の区分で四川省に所属する涼山、美姑、西昌、康定、西蔵所属で当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康)。1957末に「平定」に成功。反乱勢力10万人に人民解放軍6万を動員して「鎮圧」。20,000人殲滅、20,000人逮捕。 カム地方における「反乱」と「鎮圧」 1957年-58年。第2次蜂起(バタン(巴塘)、雲南省に所属する維西、徳欽、中甸)。1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」。 「青海省」における「反乱」と「鎮圧」 1958年3月-8月、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけて130,000人が参加する「反乱」、うち110,000人を「殲滅」して平定。 「青海省」におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人(総人口の10%)を逮捕 逮捕者の84%、45,000人が誤認逮捕。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡。 中央チベットにおける「殲滅」の規模 1959年3月から62年3月までに死亡・負傷・捕虜を含めて93,000人を殲滅、武器35,500丁、砲70門を鹵獲。
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