中国における琉球の窓口、福州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「中国における琉球の窓口、福州」の解説
明は諸外国からの朝貢事務を管轄する「市舶提挙司」という専門の役所を設けた。1405年、泉州に「市舶提挙司」付属の来遠駅を設立して琉球からの使節に対応することにした。これは宋から元代にかけて、泉州が中国の中でも有数の貿易港であったためである。しかし明代に入ると泉州から福州へと港としての繁栄が移っていき、しかも福州の方が琉球からのアクセス、そして北京への進貢ルートを考えても利便性に優れていたため、15世紀前半の永楽年間には福州が琉球の主な出入国窓口となっていた。1472年には「市舶提挙司」が福州に移転し、それに伴って琉球使節の応対施設として懐遠駅が福州に設けられ、泉州の来遠駅は廃止となった。初期の懐遠駅には宿泊設備の他、朝貢品や商品の保管、検査用の建物、あと媽祖を祀る天妃宮などが設けられていた。この福州の懐遠駅は、万暦年間には書経からその名を取った柔遠駅と改名された。やがてこの福州の琉球使節の応対施設は、一般的には琉球館と呼ばれるようになっていく。 なお福州で琉球人は福州周辺までの外出は認められていたが、夜間外出、そして宿泊は禁じられていて、北京に進貢や慶賀のために赴く以外どうしても琉球館中心の生活となっていた。後述のように琉球館には様々な機能があり、そのため約200名が滞在できるようになっていた。 明代から琉球館には「存留在船通通事」と呼ぶ琉球側の役人が駐在していたことが知られている。明から清への王朝交替期を経て、1680年以降は琉球館に駐在する琉球王国の役人の名称は「存留通事」という名称が固定化する。この「存留通事」の業務は琉球と中国との関係の調整や中国情報の収集、分析、中でも19世紀半ば以降は中国における欧米諸国の動静の収集や交渉など、いわば大使館的な業務とともに、琉球使節の日常活動に関する業務、そして朝貢貿易に関する事柄についても対応することがあった。しかし大使館的な業務を行っていたとはいえ、琉球館にはいわゆる外交特権のようなものは適用されておらず、敷地内には武官を含む中国側の役人が常駐しており、中国側の管理下に置かれていた。 琉球館には中国側のスタッフも働いていた。通訳兼琉球と中国側との交渉の一翼を担っていた土通事である。明代においては土通事はさほど重要役割を持っていなかったが、明清交替期の混乱下において、謝必振が琉球と中国側との関係円滑化に大きく貢献して以降、清代は中国側との交渉時に仲介役を果たすようになった。特にアヘン戦争後の18世紀半ば以降に欧米諸国からの圧力を受けるようになってからは、琉球側からの陳情や対欧米人対策要請に関する文書の作成、そして対欧米諸国との直接交渉などに深く関与し、琉球王国にとってより重要な人材となっていった。 他の琉球館の役割としては、まず琉球と中国との朝貢貿易の拠点となっていた。その他、琉球から中国に私費で留学し、数年間福州で学問や技術を学ぶ「勤学人」と呼ばれる人たちの滞在場所、そして中国大陸に漂着した琉球人の収容施設、中国で客死した琉球人の慰霊施設としても機能していた。つまり大使館的な機能プラス貿易センター、留学生センターそして漂流民収容施設、客死した琉球人の慰霊施設という実に多目的な使われ方をしていた。この琉球館の管理運営費や食費等は基本的に中国側の負担であり、また中国大陸に漂着した琉球人の琉球館までの移送費や生活費も中国側が負担した。
※この「中国における琉球の窓口、福州」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「中国における琉球の窓口、福州」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。
- 中国における琉球の窓口、福州のページへのリンク