世界陸上ベルリン大会(男子マラソン)出場
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「前田和浩」の記事における「世界陸上ベルリン大会(男子マラソン)出場」の解説
前田自身初のフルマラソン出場だった、2009年3月22日開催の東京マラソン2009に出場。結果2時間11分01秒で2位(日本人選手1位)となり、世界陸上ベルリン大会の男子マラソン日本代表選手に自動内定した(自身世界陸上競技選手権へは2大会連続2度目の選出)。同年8月22日の世界陸上ベルリン大会男子マラソンは、メダル・入賞争いに絡めず39位と完敗だったが、団体戦では日本代表で銅メダルを獲得した。 世界陸上大邱大会・国内選考レースとなった、2011年2月6日の第60回記念別府大分毎日マラソンでは、自己記録を32秒更新し日本人最高の3位となった。しかし、最後まで優勝を争った外国人2人についていくことができず、基準とされていた2時間10分を切ることが出来なかった事もマイナス評価となり、2大会連続の世界陸上選手権代表には選ばれなかった。 2011年12月4日、ロンドンオリンピック男子マラソン国内選考レースの福岡国際マラソンに出場。ペースメーカーがいなくなった25Km過ぎから、今井正人らと日本人同士の先頭争いを演じたが、36Km過ぎで公務員ランナー・川内優輝に後方から追いつかれ、その後3人でのデッドヒートを演じた。しかし38.4Km地点の給水所でスパートした川内と今井についていけず脱落し、日本人3番目の6位に敗れた。 ロンドン五輪国内選考レースに再挑戦となる、2012年2月26日の東京マラソン2012に出場。だが25Km過ぎで、日本人最高の2位に入った藤原新のロングスパートには対応できずに後退。自身初の2時間8分台をマークしたが、藤原からは50秒遅れて日本人2番目の6位に留まった。同年3月12日、ロンドン五輪男子マラソン日本代表選出の可能性もあったが、結局正式代表も補欠メンバーにも選ばれなかった。
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世界陸上ベルリン大会出場
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シカゴマラソン出場(16位)を経て、2008年12月7日の第62回福岡国際マラソン(世界陸上ベルリン大会選考レース)に出場。ツェガエ・ケベデ( エチオピア)、入船敏(カネボウ)に次ぐ3位に入った。この記録が2度目の「サブテン」(2時間10分未満)だったことが評価され、2009年の世界陸上ベルリン大会男子マラソン代表5選手の一人に初めて選出された。本大会では序盤は上位集団に食らいつくも、レース中盤以降で大幅にペースダウンしてしまい、61位の惨敗に終わった。 2010年2月の東京マラソン2010に出場。藤原正和(HONDA・現中央大学陸上部監督)との「藤原」対決に敗れはしたが、2年ぶり2度目の2位でフィニッシュ。同年3月31日を以てJR東日本ランニングチームを退部(JR東日本を退社)、フリーとなる。 同年5月のオタワマラソンに出場。残り1km付近でスパートをかけて抜け出し、そのまま先頭でフィニッシュ、自身念願のマラソン初優勝を大会新記録・コースレコードで飾った。その後、2010年7月1日付で健康食品の製造・販売事業を展開するレモシステムとのスポンサー契約(3年契約)を結ぶ。 2011年10月、7歳年上の一般女性と結婚。妻は富山県の産婦人科医師。同年末、第1子(長女)が誕生したことをきっかけに富山県富山市に住民登録を行う。同年10月31日付で諸事情によりレモシステムとの契約を中途解除。東京陸上競技協会所属として、国立スポーツ科学センターを拠点に母校拓殖大学陸上競技部の練習に参加していた。
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