世界陸上アテネ大会・女子マラソンで優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 14:27 UTC 版)
「鈴木博美 (陸上選手)」の記事における「世界陸上アテネ大会・女子マラソンで優勝」の解説
翌1997年3月9日、世界陸上アテネ大会・女子マラソン日本代表選出を目指して、名古屋国際女子マラソンに出走。初マラソンの大阪よりもかなりのスローペースとなり、記録よりも勝負だけのレースとなる。後半で集団がペースが上がると鈴木もついていき、ゴール直前は優勝したマディナ・ビクタギロワ(英語版)( ロシア)との一騎討ちとなったが、瑞穂陸上競技場へ入ると同時に徐々に離され、再び2位となった。しかし同年より世界陸上のマラソン代表は1か国最大3人から5人と増えたため、鈴木の念願だったマラソンでの世界代表入りを果たした(鈴木の後輩である高橋尚子も同アテネ大会に女子5000mで初の世界代表入りとなる)。 1997年8月9日の世界陸上アテネ大会・女子マラソン本番は、酷暑の厳しい気象条件のレースとなった。しかし鈴木は走っている最中「暑さは全く感じなかった」という。下り坂を走るのが苦手という鈴木は、32km付近から延々続く下り坂の手前、上り坂の途中だった27km過ぎで自らロングスパートをかける。すると前回1995年の世界陸上イェーテボリ大会・女子マラソン金メダリストのマヌエラ・マシャド( ポルトガル)ら他の選手達は誰もついていけず、鈴木の独走となった。その後も鈴木の持ち味であるスピードは全く衰えずに快走し優勝。世界陸上では1993年8月の浅利純子以来、日本女子としては二人目の金メダリストとなった。なお、翌1998年2月の長野オリンピック開会式では、最終点火者の伊藤みどり(女子フィギュアスケート五輪銀メダリスト)へ聖火をつなぐ、聖火ランナーの大役を務めている。 1999年8月29日開催の世界陸上セビリア大会・女子マラソンは、前アテネ大会のディフェンディングチャンピオン・ワイルドカードでの出場権が有ったが、足の故障による調整不足と、同チームメイトの高橋尚子がエントリーしていた事(結局レース直前で怪我により欠場)も有って出場辞退。翌2000年9月24日開催のシドニーオリンピック(女子マラソンでは高橋が日本女子陸上選手として初の金メダル獲得)で、再度マラソンでの五輪出場を狙い、1999年11月21日の東京国際女子マラソンに出走。しかし、レース序盤からハイペースで飛ばす山口衛里、千葉真子に全くついていけなかった。その後も先頭を走る山口との差は開く一方となり、結局9位に終わる。ゴール後鈴木の両足には血マメが潰れ、かなりの出血でシューズの中と靴下が真っ赤に染まる有様だった。鈴木はその後の女子長距離トラック競技の選考会へも結局エントリーせず、シドニー五輪代表入りを断念。3大会連続の五輪出場はならなかった。
※この「世界陸上アテネ大会・女子マラソンで優勝」の解説は、「鈴木博美 (陸上選手)」の解説の一部です。
「世界陸上アテネ大会・女子マラソンで優勝」を含む「鈴木博美 (陸上選手)」の記事については、「鈴木博美 (陸上選手)」の概要を参照ください。
- 世界陸上アテネ大会・女子マラソンで優勝のページへのリンク