世界情勢の変化とサアド朝の「消滅」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 08:04 UTC 版)
「サアド朝」の記事における「世界情勢の変化とサアド朝の「消滅」」の解説
このサアド朝の経済に追い討ちをかけたのが、ヨーロッパ諸国の新大陸の開発であった。16世紀、スペインは中米とアンデス方面を征服し、ポルトガルはブラジルを植民地化したが、スペインはカリブ海を囲むアンティル諸島、ポルトガルはブラジルでそれぞれ甘蔗栽培を始めた。そのため、モロッコの重要な産物であった砂糖の価値が下がることになった。また、ポルトガルは、1640年にスペインから独立すると、ギニア湾北岸まで至る西アフリカ海岸沿いに多くの港を開発、西アフリカ、アカンの黄金と象牙を直接入手できる港を獲得したことになって、モロッコの持つ大西洋岸の港の価値も下がることになる。この時期には、スペインとポルトガルの関心は、黄金よりも奴隷の獲得に向かった。というのは、甘蔗栽培はいくらでも奴隷を必要としていたからだった。1600年以前では、年間1万6000人だった奴隷の輸出が、17世紀に入るとその10倍にまでなった。しかも、西アフリカの開発と奴隷の獲得は、ギニア湾沿岸の黒人王国にも影響を与えた。つまり、奴隷獲得のためにスペインとポルトガルは黒人王国の君主たちの要求するにまかせて、銃などの優れた兵器を与えたので、サアド朝の権威はこのことによっても傷ついた。ナイジェリアのギニア湾岸に栄えたベニン王国の「銃を持つポルトガル人」を象ったいくつかの青銅彫刻はこの時期を象徴する美術作品である。モロッコ行き隊商も1年に1回であったのが3年に1回に減らされた。ムーラーイ・ジダーヌ王がトルコにどうにかしてくれと泣きつくという事態になり、アブドゥッラーの次子アル・ワーリド王(在位:1631年 - 1636年)は、即位するや黄金の輸出を禁止した。元気なのは、「小聖者」を中心とするアル・アヤチ家やディラー団といったイスラム同胞団や修養所勢力であった。スペインなどに聖戦を挑む一方海賊活動まで手がけて活躍した。サアド朝は、同砲団の首領たちを知事に任命したり、ムハンマド・エッ・シェイク・スギール王(在位:1636年 - 1654年)などは、ディラー団の首領ムハンマド・ハッジを軍司令官に任命したりして懐柔しようとするが、彼らの独自の活動を止める力を失っていた。また、アトラス山中から興った「聖者」ブー・ハッスーンが、スース地方のセイテリヤー修養所の「聖者」になってサアド朝との抗争を続け、モロッコ北部のラーライシュを念願の港として手に入れるなどの勢力を示した。このためサアド朝は、すっかり衰退し、アフメッド・ル・アッバース王(在位:1654年 - 1659年)を最後に直系の王を立てられず、一同胞団や一修養所勢力に成り下がった。その後、サアド朝の残党の公子の一人ライイランは、ディラー団の本拠新サレ(現ラバトのウダヤー地区)を1664年に奪って1668年まで支配し、「海賊大将」の名でマルセイユと通商、2つの銀行に莫大な預金をしたという。ライイランの海賊活動は、1672年にアラウィー朝に降った後も続けられた。モロッコの統一は、1670年のアラウィー朝のムーラーイ・ラシード(在位:1666年 - 1672年)による再統一を待たねばならない。
※この「世界情勢の変化とサアド朝の「消滅」」の解説は、「サアド朝」の解説の一部です。
「世界情勢の変化とサアド朝の「消滅」」を含む「サアド朝」の記事については、「サアド朝」の概要を参照ください。
- 世界情勢の変化とサアド朝の「消滅」のページへのリンク