三井合名入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:19 UTC 版)
不動産課に配属され、二年ほど働き、三井本館の竣工をまって文書課に配転となった。1932年(昭和7年)3月5日、この日は朝10時から定例理事会が予定されていた。朝寝坊の團琢磨理事長はいつも定時に遅れたが、当日は特に遅く、江戸が団宅に二度目の催促電話をしたあと、間もなく運転手が文書課に転げ込むように入ってきて、「だんなさまが今やられました」と叫んだ。 詳細は「血盟団事件」を参照 団の暗殺後、江戸は三井合名に特設された社会情勢調査の特別部門も兼ねることになった。時局の重大化に伴い、三井でも軍需産業部門の新設拡充が求められ、増税が相次ぎ、三井家の相続問題も続いて起こった。所要資金の額は莫大にのぼった。この情勢に対応するためには、従来の閉鎖的な合名会社組織を根本的に改変し、資金調達の多様化を図る必要があった。三菱、住友両社は、いち早く1937年(昭和12年)中に改組を断行。本社の株式組織化を実現していた。だが、三井には十一家の主人があり、しかも団理事長暗殺のあと、その発言力は強大となり、合名の首脳陣は動きがとれずのびのびとなっていた。しかし南条金雄の退陣を受け、理事長に就任した向井忠晴の強い決断と時局の重圧により、1940年(昭和15年)8月、親会社の三井合名を子会社の三井物産に合併するという異例の形で改組が実現され、江戸はこの改組で、三井家の事業統括機構として設けられた三井総元方総務部長代理(文書担当)となった。懸案の改組が成り、合併後、物産株を公開し、財務的には一応目的を達したが、1943年(昭和18年)9月に物産出先の経済違反事件である山西事件が起こると、軍方面より物産のあり方が強い批判を受け、向井ら首脳陣全員が辞任する事態となった。これに伴い、本社設置計画が急速に推進され、翌44年3月1日、三井物産の商事部門を新三井物産、木材部門を三井木材工業に各分離独立し、分離後の物産に三井総元方の機能を併せ三井本社とした。この改組については江戸らが企画立案し、その推進に当たった。 玉音放送は三井本館で聞くが、8月21日のロイター電は「大戦に対する三井の責任追及されん」と伝えてきた。敗戦後、三井本社では住井辰男、松本季三志の両常務が物産の宮崎清社長と一緒に、GHQ側の担当者経済科学局長のクレーマー・レイモンドと数次にわたって折衝を行い、相手の誤った日本財閥観を是正し、認識を新たにしたように見えたが、米国既定方針を変えさせることはできなかった。11月6日、GHQの指令により、形式は自発的の名目の下に、三井、三菱、住友、安田の四財閥の解散が決定した。同日、三井高公三井本社社長は本社社員を社員食堂に集め、悲壮な解体の挨拶をした。挨拶案は江戸らが泣きながら起草したものだったが、聞いたときも涙をとめることができなかった。
※この「三井合名入社」の解説は、「江戸英雄」の解説の一部です。
「三井合名入社」を含む「江戸英雄」の記事については、「江戸英雄」の概要を参照ください。
- 三井合名入社のページへのリンク