三井卯吉の勢力継承から甲斐逃亡とは? わかりやすく解説

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三井卯吉の勢力継承から甲斐逃亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:32 UTC 版)

祐天仙之助」の記事における「三井卯吉の勢力継承から甲斐逃亡」の解説

安政4年1854年正月には、小天狗亀吉率いられ甲斐駿河博徒らの連合部隊が、甲府三井卯吉殺害する事件発生する卯吉殺害背景には、祐天仙之助江尻大熊抗争もあったという。卯吉横死後、祐天独力で仇を探し出して、その殺害成功する。この功績により生前卯吉有していた勢力と、目明し業をも引き継いだ。現在、甲府市内にある教昌寺(『藤岡屋日記』に、祐天叔父住職務めていたと記されている)には、祐天(由天)が安政6年1859年)に建立した父母祖父母墓石現存しており、このことから、同年、彼は卯吉地位継承し同時に僧籍捨てて還俗した考えられている。 東京都青梅市個人所蔵文書には、祐天自身記した手配書残されている。この文書所蔵している家は先祖博徒目明かし務めた師岡孫八で、武蔵国博徒小金井小次郎親し間柄であったという。問題文書は年未詳10月5日付で、自署では「山本仙之助」を名乗り、「勇天」と署名している。祐天師岡孫八に宛てた文書で、内容同じく未詳9月24日甲府出奔した軍談渡世」(講談師)の「円荏」とその関係者見られている女性「きみ」の行方に関して箇条書き人相記しており、祐天師岡顔なじみであり、同じく文中登場する武蔵博徒田中屋五郎含め目明かし情報網用いて円荏・きみの行方探索していたことが確認される文書年代祐天没年三井卯吉殺害時期祐天甲斐からの逃亡時期から安政5年1858年)から万延元年1860年)の間に推定されている。さらに、甲府町年寄坂田家の『御用日記によれば甲府城下の西一条町の亀屋座では江戸から講談寄席招いて興行が行われていたことが記されており、安政6年万延元年条には問題9月24日挟んで興行が行われていたことが記されている。このうち安政6年9月24日挟んだ甲府城下は特に平穏なのに対し万延元年には9月22日から23日にかけて甲府城下・西青沼町において窃盗事件発生したことが記され、円荏・きみはこの事件関係して捜査され可能性考えられている。 さらに、この文書万延元年比定した場合祐天後述浪士組参加する文久3年以前に「山本仙之助」を名乗っていることになり、山本姓の名乗り三井卯吉の跡を継承したことに伴うものであったとも考えられている。 弘化3年1846年)には、竹居安五郎用心棒であった桑原来助を殺害する。ただし、大村供述によると用心棒ではなく剣術修行のため鰍沢富士川町)を通った時に祐天非道諭したところ襲撃され殺されとされる(『藤岡屋日記』)。島抜けの吃安の逮捕には、兄弟分である田安目明し国分三蔵上州館林藩浪人犬上郡次郎ならびに関東取締出役道案内らと謀計用いて捕縛する(「黒駒勝蔵口供書」)。

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