三井卯吉の勢力継承から甲斐逃亡
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「祐天仙之助」の記事における「三井卯吉の勢力継承から甲斐逃亡」の解説
安政4年(1854年)正月には、小天狗亀吉に率いられた甲斐・駿河の博徒らの連合部隊が、甲府で三井卯吉を殺害する事件が発生する。卯吉殺害の背景には、祐天仙之助と江尻大熊の抗争もあったという。卯吉の横死後、祐天は独力で仇を探し出して、その殺害に成功する。この功績により生前卯吉が有していた勢力と、目明し業をも引き継いだ。現在、甲府市内にある教昌寺(『藤岡屋日記』に、祐天の叔父が住職を務めていたと記されている)には、祐天(由天)が安政6年(1859年)に建立した父母・祖父母の墓石が現存しており、このことから、同年、彼は卯吉の地位を継承し、同時に僧籍を捨てて還俗したと考えられている。 東京都青梅市の個人所蔵文書には、祐天自身が記した手配書が残されている。この文書を所蔵している家は先祖が博徒で目明かしを務めた師岡孫八で、武蔵国の博徒・小金井小次郎と親しい間柄であったという。問題の文書は年未詳10月5日付で、自署では「山本仙之助」を名乗り、「勇天」と署名している。祐天が師岡孫八に宛てた文書で、内容は同じく年未詳9月24日に甲府を出奔した「軍談渡世」(講談師)の「円荏」とその関係者と見られている女性「きみ」の行方に関して箇条書きで人相を記しており、祐天と師岡が顔なじみであり、同じく文中に登場する武蔵の博徒・田中屋万五郎を含め、目明かしの情報網を用いて円荏・きみの行方を探索していたことが確認される。 文書の年代は祐天の没年や三井卯吉の殺害時期、祐天の甲斐からの逃亡時期から安政5年(1858年)から万延元年(1860年)の間に推定されている。さらに、甲府町年寄・坂田家の『御用日記』によれば甲府城下の西一条町の亀屋座では江戸から講談寄席を招いて興行が行われていたことが記されており、安政6年と万延元年条には問題の9月24日を挟んで興行が行われていたことが記されている。このうち安政6年の9月24日を挟んだ甲府城下は特に平穏なのに対し、万延元年には9月22日から23日にかけて甲府城下・西青沼町において窃盗事件が発生したことが記され、円荏・きみはこの事件に関係して捜査された可能性が考えられている。 さらに、この文書万延元年に比定した場合、祐天は後述の浪士組に参加する文久3年以前に「山本仙之助」を名乗っていることになり、山本姓の名乗りは三井卯吉の跡を継承したことに伴うものであったとも考えられている。 弘化3年(1846年)には、竹居安五郎の用心棒であった桑原来助を殺害する。ただし、大村の供述によると用心棒ではなく、剣術修行のため鰍沢(富士川町)を通った時に祐天の非道を諭したところ襲撃され殺されたとされる(『藤岡屋日記』)。島抜けの吃安の逮捕には、兄弟分である田安領目明しの国分三蔵、上州館林藩浪人の犬上郡次郎、ならびに関東取締出役の道案内らと謀計を用いて捕縛する(「黒駒勝蔵口供書」)。
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