ループ線、1902年 – 1905年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/10 03:51 UTC 版)
「セントラル・ロンドン鉄道」の記事における「ループ線、1902年 – 1905年」の解説
1902年の会期に対して1901年の法案を再提出する代わりに、セントラル・ロンドン鉄道はかなり意欲的な代替案を提出した。折り返し用ループ線は撤回され、その代わりに既存の路線両端を結ぶ南側の経路を新設して路線全体を1つの巨大な環状線とするもので、これはハマースミスとシティ・オブ・ロンドンを結ぶ路線を提案した委員会の報告を採用したものであった。西端では、シェパーズ・ブッシュ駅の西側にある折り返し用引き上げ線の行き止まりと、車両基地への連絡トンネルから新しいトンネルが延長されることになっていた。経路はシェパーズ・ブッシュ・グリーンの下を通り、ゴールドホーク通りをハマースミス・グローブまで通って南へ曲がる。ハマースミス・グローブの南端にはブルック・グリーン通り(現在のシェパーズ・ブッシュ通り)の角に駅を設置し、既存の3駅との乗換をできるようにする。 ハマースミスからは東へ向きを変え、ハマースミス通りとケンジントン・ハイ通りを通って、メトロポリタン・ディストリクト鉄道のアディソン・ロード駅(現在のケンジントン・オリンピア駅)およびハイ・ストリート・ケンジントン駅と接続する。ケンジントン・ハイ通りからはケンジントン・ガーデンズの南側に沿って、ケンジントン通り、ケンジントン・ゴア、ナイツブリッジを通る。駅はロイヤル・アルバート・ホール、ナイツブリッジとスローン通りの交差点に設けられる。ここはブロンプトン・アンド・ピカデリー・サーカス鉄道が既に駅を設置する許可を得ていた場所である。スローン通りからは、ナイツブリッジの東側で、ブロンプトン・アンド・ピカデリー・サーカス鉄道に認められていた経路の下を通り、ハイド・パーク・コーナーとピカデリーを通りピカデリーサーカスへ向かう。ハイド・パーク・コーナーでは、セントラル・ロンドン鉄道の駅はブロンプトン・アンド・ピカデリー・サーカス鉄道のハイド・パーク・コーナー駅に隣接することになっており、また次のセントジェームズ通りに設けられる駅は計画中のドーバー・ストリート駅(現在のグリーン・パーク駅)の東側に近い距離であった。ピカデリーサーカスでは、建設が中断していたベーカー・ストリート・アンド・ウォータールー鉄道の造りかけになっていたピカデリー・サーカス駅と接続する計画であった。そこからはレスター・スクウェアの下を南東へ向かい、チャリング・クロスに駅を設け、そこから北東へストランド(英語版)の下をノーフォーク通りへ向かい、そこでグレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道が計画していたターミナル駅と接続する。 そこから経路は東へ続き、フリート通りの下をラドゲート・サーカス(英語版)へ向かい、そこでサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道(英語版)のラドゲート・ヒル駅(英語版)と接続して、そこからニューブリッジ通りの下を南へ行き、クイーン・ヴィクトリア通り(英語版)を東へ行ってそこにメトロポリタン・ディストリクト鉄道のマンション・ハウス駅と接続が計画されていた。そこからさらにクイーン・ヴィクトリア通りの下を走り、自社のバンク駅に達して、既存のプラットホームの1階層下に別のプラットホームを設ける。最後の区間は前年から提案されていたループ線で、シティ・オブ・ロンドンの狭く入り組んだ街路の下に曲がりくねったトンネルとなる。トンネルは東へ向かい、縦に2本重ねる形でコーンヒルとリーデンホール通り(英語版)の下を通り、北へセントメアリー・アックス(英語版)の下を通って、リバプール・ストリート駅の下を西へ向かい、そしてブロムフィールド通りを西へ、グレート・ウィンチェスター通りを東へ、オースティン・フライアーズからオールド・ブロード通りを南へ、そしてスレッドニードル通りを西へ向かってそこでトンネルがバンク駅の既存の側線に接続される。このループ線上には2駅が設置されることになっており、セントメアリー・アックスの南側とリバプール・ストリート駅が予定されていた。路線延長後に必要となる増備車両を収容するために、車両基地は北側へ拡張される。また電力供給を増強するために発電所も拡大される。セントラル・ロンドン鉄道はこの建設に3,781,000ポンドを要すると見積もっていた(これはおおよそ現在の3億5800万ポンドに相当する)。2,110,000ポンドが建設費、873,000ポンドが用地費、798,000ポンドが電気設備と車両である。 セントラル・ロンドン鉄道の法案は1902年の会期に提出されたいくつかの鉄道法案の1つであった(その中にはハマースミスとシティを結ぶ路線の提案もいくつかあった)。今回もウィンザー卿が率いる合同委員会が審議することになった。この提案は、接続することになる幹線鉄道会社と、バンク駅で接続するシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道から支援を受けた。ロンドン・カウンティ・カウンシルとシティ・オブ・ロンドン自治体もこの計画を支持した。メトロポリタン鉄道は、自社のインナーサークルに対してさらに競争が激しくなるとして反対した。議会からは、シティに数多く存在する銀行の地下保管室のあまりに近くでトンネルの工事をすることの安全性と、地盤沈下でそうした保管室のドアが閉まらなくなる可能性について質問が出た。もう1つの問題は、オースティン・フライアーズにあるダッチ教会の基礎を掘る危険性であった。ウィンザー委員会は、ジョン・モルガンが支援するピカデリー・シティ・アンド・ノース・イースト鉄道(英語版)の提案する競合ルートの方が好ましいとして、シェパーズ・ブッシュからバンクの区間についてセントラル・ロンドン鉄道の提案を却下した。新規区間の主要部分がなくなったためセントラル・ロンドン鉄道はシティにおけるループ線を撤回することになり、1902年7月31日に成立した1902年セントラル・ロンドン鉄道法では既存路線に対するいくつかの改良が承認されたに留まった。 1902年末に、ピカデリー・シティ・アンド・ノース・イースト鉄道の計画は、計画の推進者たちの間で仲違いが生じてご破算となり、計画されていた路線の重要部分はライバルのロンドン地下電気鉄道に帰することになったが、同社はこの提案を撤回した。この計画撤回により、セントラル・ロンドン鉄道は法案を1903年に再提出したが、議会は再び、ロンドンの交通をいかに発展させるべきかの検討を行う任を課された王立委員会を設置して、そこで審議が行われることになった。委員会は審議を行ったものの、すべての新線や延長路線の審議が延期されることになり、セントラル・ロンドン鉄道は法案を撤回することになった。セントラル・ロンドン鉄道は1905年にも法案を一時的に再提出したものの、再びこれを撤回し、その後ロンドン地下電気鉄道と1905年10月に、両社とも東西方向の路線建設法案を1906年には提出しないという協定を結んだ。編成の両端に運転台がある新しい車両を導入したことで、ループ線を建設しなくても2分間隔で列車を運転できるようになったことから、セントラル・ロンドン鉄道はこの計画を打ち切ることになった。
※この「ループ線、1902年 – 1905年」の解説は、「セントラル・ロンドン鉄道」の解説の一部です。
「ループ線、1902年 – 1905年」を含む「セントラル・ロンドン鉄道」の記事については、「セントラル・ロンドン鉄道」の概要を参照ください。
- ループ線、1902年 – 1905年のページへのリンク