メンソレータムとメンターム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 09:16 UTC 版)
「近江兄弟社」の記事における「メンソレータムとメンターム」の解説
近江兄弟社の以前の主力商品は、メンタームではなくメンソレータムであった。 メンソレータムは、アメリカ合衆国のメンソレータム社の製品であり、同社の創始者アルバート・アレキサンダー・ハイドとヴォーリズの出会いが縁で日本での販売権が与えられた。ハイドはこの他にも、当時の日本でキリスト教伝道のために尽力するヴォーリズの働きを資金面で助けたかけがえのない恩人となったといわれる。実際、メンソレータムの販売はヴォーリズの各事業を資金面で大きく支え、自給自足での事業運営と「事業を通じて神の証をする」という近江兄弟社の理念実現を後押しした。 当時、メンソレータムを世に広めたきっかけとして、佐藤安太郎の働きがあった。佐藤安太郎は、東京九段で文部省御用商人を主業とする老舗の佐藤商店を手広く経営していたが、吉田との出会いを契機に商店の経営を後身に譲り渡して近江兄弟社に入社、同時にメンソレータムの販売を任された。最初の頃は佐藤だけで伝票も小包も発送も受け持つ程度であったが、何とかして一包でも多く消費者に届けたいと思い立ち、1オンス瓶入りのメンソレータムと伝道誌「湖畔の声(現在もなお続刊されている)」を携えて、大阪や京都の薬問屋を訪問しては取次ぎを頼んで回った。 また、佐藤は日本全国の基督教会へ呼びかける案を立て、事実その通りに全国の教会、婦人部を訊ねて、ハイド氏とメンソレータム、ヴォーリズと吉田らの志、近江ミッションの設立からメンソレータムの売上金の幾らかを伝道のために献金することを説いて回った。このようにして、全国の教会の婦人たちの手により、教会の資金を生み出すため熱心にメンソレータムの取次ぎが行われ、同時に薬問屋でも広く取次ぎが拡大し、メンソレータムの名が全国的に広く知られるようになった。 しかし、創業者ヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰に加えて競合品との市場競争が熾烈を極めた。また不動産部門の採算悪化と1973年の第一次オイルショックの影響もあって経営が苦しくなり、自主再建を断念し、1974年12月24日に会社更生法を申請。これによりメンソレータムの販売権を失った(その後、翌年の1975年4月22日にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得、さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収された)。 近江兄弟社は大鵬薬品工業(現在は東証1部上場企業で大塚HDの傘下)の協力を得て再興を模索したが、メンソレータム社からの「生産継続の交渉をする意思はない」という返答を受けてメンソレータムの継続生産が出来ず、一度は再建の道が閉ざされかけた。このため、メンソレータムの製造設備を利用したオリジナルの類似製品の販売を決める。メンソレータムの略称として従前より商標登録してあった「メンターム」を商品名として用いた(メンタームの商標は1965年7月27日に出願され、1967年10月3日付で登録(第757274号)されている)。1975年9月12日に新たに主力商品として「メンターム」(当時の商品名は「メンタームS」だった)の製造を始め、自主再建の足がかりをつかんだ。 同月16日には発売を開始し、この「メンターム」を自社主力ブランドとして育て、その他にもメンタームの効能効果を派生させたリップクリームやスキンケアクリームのほか、日焼け止めや虫よけ・かゆみ止めを製造販売する医薬品メーカーとして今日に至っている。 メンソレータムの販売権を失った近江兄弟社の自主再建にあたり、大鵬薬品工業の小林幸雄社長(当時)から〝善意〟として1,000万円が同社に贈呈され「薬業史飾る男のロマン」と報じられた。近江兄弟社はこの資金を運営費に充てず「大鵬基金」として定期預金。「善意に応えなければ」という再建に取り組む社員の心の支えとなり7年後に黒字転換、1982年7月20日、小林社長に対して〝報恩感謝〟の業績報告を果たしている。また、この小林社長の〝善意〟は「困窮の時に助けて頂いた私達が、今度は社会で困っておられる皆様に恩返しをする」という近江兄弟社のニコニコ活動の原点となった。 ニコニコ活動は再建から40余年経った現在もなお、チャリティバザーの開催や地元地域への献金活動のほか、災害地への復興支援として継続されている。
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