ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > イタリアの画家 > ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの意味・解説 

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/08 09:25 UTC 版)

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ: Michelangelo Merisi da Caravaggio1571年9月29日[1] - 1610年7月18日)は、バロック期イタリア人画家。一般には単にカラヴァッジオ(カラヴァッジョ、カラバッジオ、カラバッジョとも)の名で呼ばれる。


  1. ^ Andrew Graham-Dixon, "Caravaggio"『ブリタニカ百科事典』。2020年8月25日閲覧。
  2. ^ Getty profile, including variant spellings of the artist's name.
  3. ^ Caravaggio's Rap Sheet Reveals Him to have been a Lawless, Sword-Obsessed Wildman, and a Terrible Renter ARTINFO.com
  4. ^ Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用はカレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、1594年10月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は1597年7月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)。
  5. ^ Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.
  6. ^ Biography of Caravaggio Archived 2009年4月16日, at the Wayback Machine.
  7. ^ Confirmed by the finding of the baptism certificate from the Milanese parish of Santo Stefano in Brolo: Rai International Online Archived 2009年4月16日, at the Wayback Machine.. 以前はその姓から、カラヴァッジョ村で生まれたと考えられていた。
  8. ^ Harris, p. 21.
  9. ^ Rosa Giorgi, "Caravaggio: Master of light and dark – his life in paintings", p.12.
  10. ^ Quoted without attribution in Robb, p.35. おそらく一次資料であるマンチーニ、バリオーネ、ベッローリの各著作からの引用で、どの著作もカラヴァッジョのローマ時代初期がひどい貧困状態だったことを記載している。
  11. ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672:「ミケーレ(カラヴァッジョ)は金銭的理由からジュゼッペ・ダプリーノ(チェーザリ)のもとで働いた。花と果物を描く助手として雇われ、現在に至るまで愛される美しい写実的な作品を残した」
  12. ^ Caravaggio's Fruit: A Mirror on Baroque Horticulture (Jules Janick, Department of Horticulture and Landscape Architecture, Purdue University, West Lafayette, Indiana)
  13. ^ Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.79. Longhi was with Caravaggio on the night of the fatal brawl with Tomassoni; Robb, "M", p.341, believes that Minniti was as well.
  14. ^ Robb, p.79. Robb はその著作でベッローリも引き合いに出している。ベッローリはカラヴァッジョの豊かな色彩感覚は賞賛していたが、その自然主義には批判的だった。「カラヴァッジョは自然をそのままに描くことで満足し、それ以上のことに頭を使おうとはしていない」
  15. ^ Bellori. さらに「これら若い画家たちはいかにうまくカラヴァッジョの作品を模倣できるかを競い合い、衣服を脱がせたモデルに強い光をあてて絵画を描いた。それはカラヴァッジョの作品を研究、解析するというよりも、手軽にカラヴァッジョの作品を模写しているにすぎなかった」と続く。
  16. ^ 対抗宗教改革下における教会の芸術に対する礼儀思想によるものだった (Giorgi, p.80 and Gash, p.8ff)。『聖マタイと天使』『聖母の死』が受け取りを拒否された詳細な経緯については Puglisi, pp.179–188. を参照。
  17. ^ Lambert, p.66.
  18. ^ このことから『馬丁の聖母』とも呼ばれる。
  19. ^ Venerabile Arciconfraternita di Sant'Anna de Parafrenieri
  20. ^ 「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ Considerazioni sulla pittura:)
  21. ^ Baglione: 「トラステヴェレのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の依頼で描かれた『聖母の死』は、聖母の脚が描かれた慎みに欠ける絵画だったため教会から拒まれた。その後マントヴァ公がこの作品を購入し。自分のもっとも大きなギャラリーへ飾った」(Baglione Le vite de' pittori)
  22. ^ ジャンニ・パピはチェッコ・デル・カラヴァッジョはフランチェスコ・ボネリだとしているが、17世紀初頭にカラヴァッジョの身辺の世話をし、モデルも務めたチェッコとボネリとの関連性は状況証拠しか存在しない (Robb, pp193–196)。
  23. ^ このときの乱闘騒ぎとラヌッチオ・トマゾーニの死については未だに謎のままである。当時のいくつかの記録では、乱闘の原因がギャンブルによる金の貸し借りとテニス試合の遺恨によるものだとしており、これが広く受け入れられるようになっている。しかし、近年の研究によるともっと単純な痴情のもつれによるものであると考えられている (Peter Robb's "M" and Helen Langdon's "Caravaggio: A Life")。'Red-blooded Caravaggio killed love rival in bungled castration attempt'
  24. ^ 1606年のトマゾーニの死亡事件のあと、カラヴァッジョは最初にローマ南部のコロンナ家所領に逃げ込んだ。その後、生前のカラヴァッジョの父フェルモが邸宅管理人を任されていたフランチェスコ・スフォルツァの未亡人、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァを頼ってナポリへと落ち延びている。コスタンツァの兄弟アスカニオはナポリ王国の Cardinal-Protector、マルツィオはスペイン副王の顧問官、妹はナポリの重要な一族カラファ家へと嫁いでいた。これら有力者たちからの支援もあって、ナポリでもカラヴァッジョのもとへは次々と絵画の制作注文が舞い込んでいる。コスタンツァの息子ファブリツィオ・スフォルツァ・コロンナはマルタ騎士団の騎士で将官であり、1607年にカラヴァッジョがマルタ島へ移住する際に便宜を図り、さらに翌年マルタ島の監獄から脱獄するのにも手を貸したと考えられている。カラヴァッジョはマルタ島脱出後の1609年に再びコスタンツァを頼ってナポリの宮殿に滞在した。このようなカラヴァッジョとコロンナ家の親密な関係は多くの伝記に書かれており、美術史家からの研究対象となっている (Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.258, for a brief outline. Helen Langdon, "Caravaggio: A Life", ch.12 and 15, and Peter Robb, "M", pp.398ff and 459ff)。
  25. ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672
  26. ^ この乱闘騒ぎに関する証拠がマルタ大学のカイト・シベラス教授によって発見された。 "Frater Michael Angelus in tumultu: the cause of Caravaggio's imprisonment in Malta", The Burlington Magazine, CXLV, April 2002, pp.229–232, and "Riflessioni su Malta al tempo del Caravaggio", Paragone Arte, Anno LII N.629, July 2002, pp.3–20. Sciberras' findings are summarised online at Caravaggio.com Archived 2006年3月10日, at the Wayback Machine..
  27. ^ 「恥ずべき卑劣な男」は、騎士団を除名される際に用いられる決まり文句である。1608年12月1日に騎士団の高位騎士たちが招集されたが、4度に及ぶ喚問にもかかわらずカラヴァッジョの罪状の立証はできなかった。結局騎士たちによる投票が行われ、その結果満場一致でカラヴァッジョの騎士団除名が決定された。
  28. ^ Langdon, p.365.
  29. ^ カラヴァッジョの奇行は画家としてのキャリア初期から評判となっていた。マンチーニはカラヴァッジョを「完全に狂っている」と評し、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテは書簡のなかでカラヴァッジョの奇矯な言動について書き残している。さらにマリオ・ミンニーティに関する1724年に書かれた伝記には、ミンニーティはカラヴァッジョの素行に耐えられず袂を分かったという記述がある。このような奇行はマルタ島移住以来ますます顕著になっていき、18世紀初頭に書かれた『メッシーナの画家たちの伝記 (Le vite de' pittori Messinesi)』にはシチリアでのカラヴァッジョの常軌を逸した言動の逸話がいくつか記載されており、この本を参考としたカラヴァッジョの一生を描いた伝記が現代のランドン (Langdon) やロブ (Robb) といった美術史家から発表されている。ベッローリはカラヴァッジョの町から町、島から島へと渡り歩く「恐るべき」人生にページを割き、結局はナポリを含め「どこにも安住の地はなかった」としている。バリオーネもカラヴァッジョはつねに「敵に追い回されていた」と書いているが、ベッローリと同様にカラヴァッジョの敵が具体的に誰なのかは明らかにしていない。
  30. ^ Baglione says that Caravaggio in Naples had "given up all hope of revenge" against his unnamed enemy.
  31. ^ 17世紀の記録には、ゴリアテは自画像でダビデは「小さなカラヴァッジョ (il suo Caravaggino)」であると記されている。「小さなカラヴァッジョ」が何を意味するのかははっきりしないが二つの説があり、若いころの自画像、あるいは有力な解釈として『愛の勝利』のモデルだったチェッコだといわれている。ダビデが手にしている剣には簡約された銘があり「謙遜は高慢を凌駕する」と解釈されている。制作年度はジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) が書いた17世紀の芸術家列伝『現代画家・彫刻家・建築家伝』(1672年)にはローマ滞在後期となっているが、近年の研究ではナポリ帰還後だと考えられている (Gash, p.125)。
  32. ^ ナポリのカゼルタ司教から枢機卿シピオーネへと送られた1610年7月29日付の書簡には、カラヴァッジョがシピオーネへと贈るつもりだったのは2点の洗礼者ヨハネを描いた絵画と、マグダラのマリアを描いた絵画であるという情報が記載されている。これらの絵画はおそらくシピオーネの叔父、つまり教皇パウルス5世がカラヴァッジョに恩赦を与える見返りとして要求したものである。
  33. ^ Vatican reveals Caravaggio painting 'found' in Rome BBC website, published: 19 July 2010, accessed: 2011-09-08
  34. ^ Church bones 'belong to Caravaggio', researchers say BBC website, published: 16 June 2010, accessed: 2011-09-08
  35. ^ The mystery of Caravaggio's death solved at last – painting killed him, Tom Kington, The Guardian, Wednesday, 16 June 2010.
  36. ^ Inscriptiones et Elogia (Cod.Vat.7927)
  37. ^ Lambert, p.11.
  38. ^ ローマでのカラヴァッジョの暮らしぶりは法廷記録に多く残っている。「アーティチョーク事件」とは、カラヴァッジョが熱いアーティチョークが盛られた皿を給仕に投げつけたという記録である。
  39. ^ Robb, passim
  40. ^ 最初に作品に描かれた自画像は『病めるバッカス』でその他に『ゴリアテの首を持つダビデ』に描かれているゴリアテもカラヴァッジョの自画像である。カラヴァッジョ以前にも自身の肖像画を作品に登場させた画家はいたが、役割は主題となっているモチーフの傍観者や観衆としてであり、自身を主題の主要人物として描いた画家はいなかった。
  41. ^ a b Giovanni Baglione 『Le vite de' pittori』, 1642年
  42. ^ アルテミジアは1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。
  43. ^ ほかにもスペインで活動していたイタリア人画家ヴォンチェンツォ・カルドゥッチ ( en:Vincenzo Carducci) がカラヴァッジョを、他人を欺く「恐ろしい」才能を持った「キリストの教えに背く者」であると酷評している。
  44. ^ Gille Lambert 2000のp.15に引用されたロンギの見解
  45. ^ Gille Lambert 2000のp.8に引用されたBernard Berensonの見解
  46. ^ Alberge, Dalya (2011年6月19日). “Unknown Caravaggio painting unearthed in Britain”. The Guardian. 2011年6月20日閲覧。


「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の関連用語

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS