カラヴァジェスティ
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「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の記事における「カラヴァジェスティ」の解説
カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあったオラツィオ・ジェンティレスキやジョヴァンニ・バリオーネがあげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった。次世代のカラヴァジェスティとしてカルロ・サラチェーニ (Carlo Saraceni)、バルトロメオ・マンフレディ (Bartolomeo Manfredi)、オラツィオ・ボルジャンニ (Orazio Borgianni)らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王チャールズ1世の宮廷画家になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘アルテミジアも父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった。 ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにも関わらず、バッティステッロ・カラッチョロ、カルロ・セッリート (en:Carlo Sellitto)ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。 オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 (en:Utrecht Caravaggism) と呼ばれる宗教画家たちが存在した。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代にはヘンドリック・テル・ブルッヘン、ヘラルト・ファン・ホントホルスト、アンドリエス・ボト (en:Andries Both)、ディルク・ファン・バブーレン (en:Dirck van Baburen) らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『キリストの埋葬 (Entombment of Christ)』の模写も行ったルーベンスを初め、フェルメール、レンブラント、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしているベラスケスの作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。
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