ムフェカネとグレート・トレック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 19:44 UTC 版)
「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「ムフェカネとグレート・トレック」の解説
ヨーロッパでナポレオン戦争が勃発するとともに、オランダのケープ支配は終わりを告げた。イギリスは1795年にケープを占領し、1803年に前年結ばれたアミアンの和約に基づいて一度バタヴィア共和国にケープを返還したものの、1806年に再度占領し、1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が発足した。 ケープ植民地が英領となった頃、東のナタールにおいては大変動が起こっていた。ングニ人の一部族であるズールー人のシャカ・ズールーがズールー王国を建国し、四方に侵略を始めたのである。ズールーは短槍を中心とした強力な軍隊を擁し、近隣部族を次々と制圧していった。ズールーは強力な国家となったが、内には恐怖政治をひき、外には略奪暴行の限りを尽くしたため、恐慌をおこした近隣他民族は一斉にズールー領域からの大移動を始めた。ンデベレ人、コロロ人、ンゴニ人、シャンガーン人などのように遠方へ逃れる民族が出る一方、スワジ人やソト人のように居住地域で防御を固める中で国家としての統一を成し遂げる民族も出た。この混乱のことを、ムフェカネと呼ぶ。この混乱により、1820年代から1830年代にかけて、ハイフェルト一帯は人もまばらな荒野と化した。 ケープ植民地においては、イギリス人とボーア人の対立が先鋭化しつつあった。ケープの公用語は英語となり、1820年には最初の英国系移民がケープに到着。1828年には総督令50号が制定され、1809年に施行されたホッテントット条例が廃止されたため、ボーア人の間で深刻な労働力不足が起き、さらに1833年には大英帝国全土において奴隷制が廃止され、特に奴隷に依存した大農園を経済の中心とする東ケープにおいて不満は頂点に達した。 1834年、ピーター・レティーフら東ケープのボーア人有力者がグラハムズタウンに集結し、イギリスの力の及ばないナタールへの移動を決定し、1835年に移動を開始した。これを、グレート・トレックと呼ぶ。当時の内陸部はムフェカネで疲弊しており、ボーア人たちは速やかに勢力を広げることができた。ボーア人は内陸のンデベレ人を撃破し、本隊は1838年1月28日にナタールへと到着した。ここでズールー人の奇襲にあい、ピーター・レティーフらは命を落としたが、1838年12月18日にアンドリース・プレトリウスの指揮下のボーア軍がブラッド・リヴァーの戦いにおいてズールー人を撃破し、1839年10月12日にナタール共和国を建国した。 しかしナタール共和国は混迷を極め、イギリスの介入を招いて1843年5月12日にナタール共和国は崩壊。ボーア人のほとんどは内陸部へと転進し、オレンジ川以北とヴァール川以北に二つの政府を樹立した。イギリスは1848年にオレンジ川主権国家を建国してこの地域をイギリスの影響下に置こうとしたものの、ボーア人やソト人らの抵抗にあい、結局1852年1月17日、サンドリバー協定によってトランスヴァール共和国(正式名称南アフリカ共和国)が、次いで1854年2月23日にブルームフォンテーン協定によってオレンジ自由国が独立を認められた。
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