ペリーとともに日本へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 17:45 UTC 版)
「ヴィルヘルム・ハイネ」の記事における「ペリーとともに日本へ」の解説
「黒船来航」も参照 1852年、ハイネは外交書簡を携えてミラード・フィルモア大統領と面会した際に、日本遠征への同行の希望を伝え、マシュー・ペリー提督とも会っている。日本遠征への随行を望む画家や学者は多かったが、ハイネは公式画家として随行者に選ばれた。ハイネはスケッチの速さと写実性を認められており、また文章で表現することの速さにも定評があった。視覚記録を残すための要員としてはほかに、ダゲレオタイプ(銀板写真)の撮影技術を持ったエリファレット・ブラウン・ジュニアが選ばれている。なお、このときペリーに断られた学者の中にはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがいる。 ハイネはアメリカ海軍のマスター・メイト (Master's mate) という身分でペリーの遠征に随行した。セントヘレナやセイロンなど、日本に向かう途中の各地でも作品を描いている。香港で艦隊が再編された際には旗艦サスケハナ号に乗艦し、ペリーの配慮により甲板上にアトリエが作られた。 1853年から1854年にかけ、ハイネは艦隊とともに(日本ではペリーの「来航」と「再来航」と認識される旅に従って)沖縄、小笠原諸島、横浜、下田、函館を訪れ、彼が訪れた場所や出会った人々をスケッチした。ハイネのスケッチは約400枚あり、これは木版画や石版画にされてペリーの公式報告書に添えられた。また、フランシス・ホークス (Francis L. Hawks) が編纂した『ペリー提督日本遠征記』にもその一部が挿絵として用いられた。ハイネのスケッチは、ブラウンの銀板写真とともに、アメリカによる日本遠征の視覚的史料となっており、多数の西洋人が訪れる前の日本の記録として重要であり続けている。 艦隊とともに帰国したハイネは、何冊かの書籍を出版した。1856年にニューヨークで刊行した『日本遠征図集』 Graphic Scenes of the Japan Expedition は、ペリーの公式報告書に含まれた400枚のスケッチである。また、艦内で記していた手記 や郷里に送った手紙 とスケッチをもとに、ドイツに原稿を送って『世界周航日本への旅』 Reiss um die Welt nach Japan をライプチヒで刊行した。ハイネはこの著書の中で日本人を「活気に満ちた知性豊かな民族」と好意的に描き、「忠実」「勤勉」という表現を多用している。この著書は画集ではなく文章を中心としたもの であるが非常に成功し、まもなくフランス語とオランダ語に翻訳された。江戸幕府もオランダ語版を入手して蕃書調所で翻訳している。ただし、この書籍については、シーボルトが「とりとめもなく根拠がない」として 厳しい批判をおこなっている。 "Shimoda as seen from the American Grave Yard" (lithograph, 1856). 外国人墓地(玉泉寺)から見た下田 "Napha from Bamboo Village" (lithograph, 1856). 那覇 "View of Hakodate from Snow Peak" (lithograph, 1856). 箱館 そののち彼は、アメリカ合衆国が日本・中国・オホーツク海に派遣したロジャース遠征 (North Pacific Exploring and Surveying Expedition) の記録のドイツ語訳、Die Expedition in dir Seen von China, Japan und Okhotsk(ライプチヒ、1858-59)を刊行した。1860年にはライプチヒで Japan und Seine Bewohner(『日本とその住民-土地と人間の歴史的展望と民族学的記述』)を出版した。ただし、Japan und Seine Bewohner は、信憑性が疑われるフェルナン・メンデス・ピントの『遍歴記』を参考資料に用いるなどの点から、評価は芳しくない。
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