ペリーの加入とヒット量産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 00:44 UTC 版)
「ジャーニー (バンド)」の記事における「ペリーの加入とヒット量産」の解説
スティーヴ・ペリーはジャーニーに加入する直前まではエイリアン・プロジェクトというバンドに参加していたが、メジャー・デビューのための契約を間近に控えた1977年の夏にベーシストを交通事故で失い、エイリアン・プロジェクトとしてのメジャー・デビューの話は白紙となった(ペリー曰く「バンドは急いで彼の代わりを捜したんだけど、僕にとっては彼無しではもう以前と同じようなバンド活動は続けられなくなってしまった」)。エイリアン・プロジェクトとしての活動が停止した後、ペリーは故郷に戻ってしばらく農場で働いていたが、実はその間にエイリアン・プロジェクトのデモ・テープが業界関係者を通じてハービー・ハーバートのもとに届いていた。それを聴いたハーバートは、その可能性を高く評価しペリーをジャーニーへ加入させた(加入当初のペリーはハーバートの計らいからか、「ツアースタッフの親戚」という触れ込みでツアースタッフも兼務していたとされる)。 1978年、4作目のアルバム『インフィニティ』では前作までのプログレッシヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、それと伸びの良いヴォーカル・パートを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となり、その後のバンドの方向性を明確に示す。このアルバムは全米21位のヒットとなり、初のシングル・ヒット曲(「ホィール・イン・ザ・スカイ」)を獲得すると共にプラチナ・ディスクを初めて獲得した。 しかしダンバーはそれ以上のポップ化を図るバンド/マネジメントとそりが合わなくなり、脱退してジェファーソン・スターシップに移籍、新たなドラマーとしてスティーヴ・スミスが参加。ジャズの流れを汲む彼の演奏はハードロック的でポップな作風へとシフトしつつあったバンドの志向と合致し、1979年作の『エヴォリューション』アルバムでは全米チャート20位、続く1980年作の『ディパーチャー』では8位と更に勢いを増し、その中で歴代の代表曲となる「ラヴィン・タッチン・スクィーズィン」や「お気に召すまま」などのシングル・ヒットも記録。バンドはそれまで通りライヴ・ツアー主体の活動を続けつつ、より広範な聴衆と人気を獲得してゆくこととなる。また、前述『ディパーチャー』アルバムと同年に高田賢三が監督を務めた映画「夢、夢のあと」のオリジナルサウンドトラックも手がけた。 その後、結成メンバーの一人であったグレッグ・ローリーが心労などの理由から脱退し、オリジナルメンバーはショーンとヴァロリーの2人だけとなる。ローリーは後任のキーボーディストとして当時ジャーニーの前座を務めていたベイビーズのジョナサン・ケインを推薦した。ケイン自身はこの時すでにベイビーズの主要メンバーであった自らの責任とジャーニーでの可能性との狭間で苦悩したが、最終的にジャーニーを選んだ。シンセサイザー世代であるケインはメロディックな曲を書くソングライターとしての素質も持っており、ジャーニーの楽曲に幅広いレパートリーを与えた。また演奏面でもブルージーで官能的なグレッグとは全く異なる爽快なサウンドをジャーニーの楽曲に加味した。ギターも演奏できたケインはショーンの手ほどきでギタリストとしても才能を現し、ライヴにおいては時としてショーンをサポートする「もうひとりのギタリスト」として演奏するなど斬新な印象をバンドの作風に盛り込んだ。
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