ペリーの箱館来航
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嘉永7年4月(1854年5月)、日米和親条約を締結したペリーが箱館に来航した際、主席応接使を勤める。ペリー艦隊の主な目的は箱館港の視察であったが、箱館入港後、アメリカ側は箱館港に関する取り決めを松前藩に求めてきた。ところが、松前藩は幕府から諸事穏便に済ませよと命じられていただけで、ペリーの目的を知らされていなかった。4月23日にようやく箱館開港を伝える飛脚が届いたものの、日米和親条約については伝えられておらず、アメリカ側から条文を示されて初めて具体的内容を知る始末であった。 4月23日(1854年5月19日)、勘解由はミシシッピ号を訪問、ペリーと会談。ペリーは松前藩主が出席しないことに関し不満を示したが、勘解由は、藩主が松前を離れることは不可能なため自分が全権委任を受けていると答えると共に、条約は来年発効にも関わらず、条約にない条項を要求していると抗議。かつ、自分も藩主も公儀の命令がなくては交渉の範囲を決定できない、と答えて会談を終了した。 その3日後の4月26日(1854年5月22日)、ペリーが箱館に上陸して再度の会談が行われた。遊歩区域 について議論になったが、これも勘解由は権限がないとして遊歩区域の境界設定を拒否した。ペリーの要求に苦慮した松前藩は、蝦夷地視察のため津軽・三厩に来ていた目付・堀利煕、勘定吟味役・村垣範正に事情を報告した。堀らは部下を箱館に派遣し、アメリカ側に要求は不当であり、箱館港についての取り決めは後日下田で協議したいと回答。ペリーも了承し、5月8日(1854年6月3日)、箱館を出港した。 箱館における勘解由の対応を、アメリカ側は以下の様に批判した。 勘解由は明らかに無気力の男で、なにか責任をとることを恐れているにもかかわらず、すべての拒否を、穏便にあたかも私どもに同意さすことを望んでいたらしかった。 — 『ペリー日本遠征日誌』 勘解由の、のらりくらりとした対応は「松前勘解由のコンニャク問答」として幕閣にまで有名となり、ペリー応接の褒美として将軍・徳川家定から御紋付時服を、藩主・崇広からは刀などを賜る。 なお、箱館でペリー艦隊の写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアが勘解由を撮影した、日本最古の銀板写真のうちの1枚(重要文化財)、中国人通訳の羅森から送られた扇子(斎藤流松前家資料、松前町指定文化財) が遺されている。
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