ペリーの箱館来航とは? わかりやすく解説

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ペリーの箱館来航

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:15 UTC 版)

松前勘解由」の記事における「ペリーの箱館来航」の解説

嘉永7年4月1854年5月)、日米和親条約締結したペリー箱館来航した際、主席応接使を勤める。ペリー艦隊主な目的箱館港視察であったが、箱館入港後、アメリカ側箱館港に関する取り決め松前藩求めてきた。ところが、松前藩幕府から諸事穏便に済ませよ命じられいただけで、ペリー目的知らされていなかった。4月23日にようやく箱館開港伝え飛脚届いたものの、日米和親条約については伝えられておらず、アメリカ側から条文示され初め具体的内容を知る始末であった4月23日1854年5月19日)、勘解由ミシシッピ号訪問ペリー会談ペリー松前藩主が出席しないことに関し不満を示したが、勘解由は、藩主松前離れることは不可能なため自分全権委任受けていると答えと共に条約来年発効にも関わらず条約にない条項要求していると抗議。かつ、自分藩主公儀命令なくては交渉範囲決定できない、と答えて会談終了したその3日後の4月26日1854年5月22日)、ペリー箱館上陸して再度会談が行われた。遊歩区域 について議論になったが、これも勘解由権限がないとして遊歩区域境界設定拒否したペリー要求苦慮した松前藩は、蝦夷地視察のため津軽三厩来ていた目付堀利煕勘定吟味役村垣範正事情報告した。堀らは部下箱館派遣しアメリカ側要求不当であり、箱館港についての取り決め後日下田協議したい回答ペリー了承し5月8日1854年6月3日)、箱館出港した箱館における勘解由の対応を、アメリカ側は以下の様に批判した勘解由明らかに無気力の男で、なにか責任をとることを恐れているにもかかわらずすべての拒否を、穏便にあたかも私ども同意さすことを望んでいたらしかった。 — 『ペリー日本遠征日誌勘解由の、のらりくらりとした対応は「松前勘解由コンニャク問答」として幕閣にまで有名となり、ペリー応接褒美として将軍徳川家定から御紋付時服を、藩主・崇広からは刀などを賜る。 なお、箱館ペリー艦隊写真師エリファレット・ブラウン・ジュニア勘解由撮影した日本最古銀板写真のうちの1枚重要文化財)、中国人通訳羅森から送られ扇子斎藤松前家資料松前町指定文化財) が遺されている。

※この「ペリーの箱館来航」の解説は、「松前勘解由」の解説の一部です。
「ペリーの箱館来航」を含む「松前勘解由」の記事については、「松前勘解由」の概要を参照ください。

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