ベアフラッグ反乱とアメリカの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 14:58 UTC 版)
「カリフォルニア州の歴史」の記事における「ベアフラッグ反乱とアメリカの征服」の解説
詳細は「米墨戦争」を参照 1846年5月13日にアメリカ合衆国がメキシコに宣戦布告した後、カリフォルニアまで戦争の話が届くのにおよそ2ヶ月(7月半ば)を要した。モントレーに駐在していた合衆国領事トマス・O・ラーキンは戦争の噂を聞くと、ホセ・カストロが指揮する少数のメキシコ軍守備隊とアメリカ人の間の平和を維持しようとした。アメリカ軍のジョン・C・フレモント大尉は約60名の武装の行き届いた兵士を連れて、1845年12月にカリフォルニアに入っており、メキシコと合衆国との間の戦争が避けられないという話を聞いた時に、ゆっくりとオレゴンに向かって行軍していた。 1846年6月15日、約30名の非メキシコ人開拓者、その大半はアメリカ人が反乱を起こし、ソノマ(英語版)にあったメキシコの小さな守備基地を占領した。彼等はソノマの空にカリフォルニア共和国の「ベアフラッグ」を掲げた。ベアフラッグ反乱(英語版)はフレモントに率いられたアメリカ軍が6月23日に抑えるまで1週間続いた。今日のカリフォルニア州の旗はこの最初のベアフラッグに基づいており、「カリフォルニア共和国」という言葉も入ったままである。 アメリカ海軍准将ジョン・ドレーク・スロートは近付く戦争とソノマでの反乱の話を聞いて、7月7日にその海軍力で「ヤーバ・ブエナ」(現在のサンフランシスコ)を占領するよう命じ、アメリカ国旗を掲げさせた。7月15日、スロートはさらに好戦的な指導者であるロバート・ストックトン准将に指揮権を渡した。ストックトンはフレモントの部隊もその指揮下に置いた。7月19日、フレモントの「カリフォルニア大隊」はサクラメント近くに到着した新しい開拓者約160名を得て脹れ上がり、ストックトンの水兵や海兵と協働行動を行うためにモントレーに入った。米墨戦争が始まったという公式の伝言が届いた。アメリカ軍は容易にカリフォルニア北部を制圧した。数日のうちにサンフランシスコ、ソノマ、およびサクラメントのサッター砦を支配した。 カリフォルニア南部ではメキシコのホセ・カストロ将軍とピオ・ピコ知事がロサンゼルスから逃亡した。1846年8月13日にストックトン隊が抵抗無しにロサンゼルスに入った時、ほとんど無血のカリフォルニア征服が完成したように見えた。しかし、ストックトンはロサンゼルスにあまりに少数の部隊(36名)を残したので、ホセ・マリア・フローレスに率いられたカリフォルニオ達が自分達で行動しメキシコからの援助も無かったが、9月遅くにアメリカの小さな守備隊に退去を強制した。ストックトンの命令でウィリアム・マービン海軍大佐に率いられた増援200名は、10月7日から9日のサンペドロ近くで戦われたドミニゲス牧場の戦いで撃退され、14名の海兵が戦死した。一方、カーニー将軍に率いられた100名の竜騎兵隊は、ニューメキシコ、アリゾナおよびソノラ砂漠を苦闘して行軍した後にやっとカリフォルニアに到着したが、その数は減っていた。12月6日、カーニー隊はサンディエゴ近くでサンパスクァルの戦いを行い、この時18名が戦死したが、カリフォルニアで行われた戦闘としてはアメリカ側の最大の損失となった。 ストックトンはその複合部隊で包囲されていたカーニー隊を救出し、サンディエゴから北に動いて1847年1月8日にロサンゼルス地区に入り、フレモント隊と合流してアメリカ軍は総勢660名となり、リオ・サンガブリエルの戦いでカリフォルニオと戦い、翌1月9日、ラ・メサの戦いを行った。3日後の1月12日、カリフォルニオの最後の意味ある集団がアメリカ軍に降伏した。これがカリフォルニアでの戦争の終結となった。1月13日、カフエンガ条約が締結された。 1月28日、陸軍のウィリアム・シャーマン中尉とその部隊がモントレーに到着し、カリフォルニアにアメリカ軍が次々と流れ込む初めとなった。3月15日には、ジョナサン・D・スティーブンソン率いる第7ニューヨーク志願兵連隊が約900名でカリフォルニアに到着した。これらの部隊の全ては1848年1月に金が発見された時、カリフォルニアに残っていた。 1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約で米墨戦争は終わった。この条約で、アメリカ合衆国はメキシコに1,825万ドルを払うことに同意し、メキシコはカリフォルニア(および他の北方領土)を正式にアメリカ合衆国に割譲し、アメリカとメキシコの間の国境が初めて引かれた。それ以前の国境は1819年のアダムズ=オニス条約でスペインとアメリカの間で交渉されたものであり、現在のカリフォルニア州とオレゴン州の州境を定めていた。サンディエゴ湾はサンフランシスコより南のカリフォルニアでは数少ない自然港のひとつであり、この戦略的水域の全てに所有権主張が行われ、国境はそれをカリフォルニアに含むように斜めに引かれた。
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