パリ・コミューン支持をめぐって
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「カール・マルクス」の記事における「パリ・コミューン支持をめぐって」の解説
マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日にはアドルフ・ティエール政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性をパリジャンは持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである。 マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した。 その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている。娘婿ポール・ラファルグやジュール・ゲードなど、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちのフランス社会党の一翼を形成することになる。 しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論が出回るようになった。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった。 こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた。 マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるようにバクーニンとの闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく。 「パリ・コミューン」も参照
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