パティシエから聖職者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)
「ジョゼフ・ウレザンスキ」の記事における「パティシエから聖職者へ」の解説
初等教育を修了すると最初は地元で、次いで大都市ナントに移り住んでパティシエの修業を積んだ。共産党員と付き合うようになり、友人に誘われて1925年にベルギーのジョゼフ・カルデン神父が設立したカトリック青年労働者連盟 (JOC; 現在、日本を含む世界50か国以上で活動している)に加盟した。不当な労働条件で働かされ、キリスト教徒になった若い労働者らとともに闘うなかで、ウレザンスキは神を見出し、「貧しい人々を教会に、教会を貧しい人々に捧げる」ために司祭になる決意をした。 こうしてウレザンスキは19歳でゼロから再出発した。聖職者やその親族から経済的支援を得てラテン語を勉強し、哲学と神学を修めた。1937年10月に軍隊に入隊し、第二次大戦が勃発すると前線に送られ、ドイツ軍の捕虜となったが脱走してアントラム(フランス語版)(マイエンヌ県)の神学校に戻って学業を再開した。学業の傍ら、工場や炭鉱の労働者とともに働いた。1946年6月29日、ソワソン(オー=ド=フランス地域圏エーヌ県)で司祭に叙階された。以後10年間、エーヌ県の貧しい労働者や農民の多い小教区で司牧した。テルニエ(フランス語版)の小教区の助任司祭に任命されると、鉄道員の多い同地にカトリック青年労働者連盟グループを結成し、ゼネストが起きたときにはこれを支持したが、一方で、こうした闘いにすら参加しない極貧の労働者がいることに懸念を深めていた。フランス宣教会は大都市の貧しい人々と生活を共にすることで彼らの境遇改善に尽力しようと考えていた。ウレザンスキもこの計画を支援したが、まもなく結核を患い、サナトリウムで療養した。療養中に母の死を知った。 聖年(ローマ巡礼者に特別の赦しを与える年)の1950年、ウレザンスキはまだ回復期にあったが、ローマを巡礼し、数か月にわたって貧民街に暮らす人々に会って話を聞いた。シシリー島の塩鉱も訪れ、過酷な労働の実情を知った。さらに清貧と祈りに生きた聖フランチェスコの聖地アッシジを訪れたことをきっかけに、世界各国の巡礼地および貧しい人々が住む地区を訪れた。帰国後、エーヌ県の小村デュイゼル(フランス語版)で主任司祭に任命された。父祖伝来の広大な土地の所有者がいる一方で、そこで働く貧しい農民、特に季節労働者や移民は不自由な生活を強いられていた。教会は通う人がほとんどいず、打ち捨てられた状態であった。ウレザンスキは教会の再建に取り組む一方で、農民の作業を手伝った。農民は彼の仕事に協力し、教会は再建された。ウレザンスキは次に近隣の他の教会の再建に取りかかった。
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