ドイツ政府の干渉と対レジスタンス政策
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ドイツ政府の干渉と対レジスタンス政策」の解説
詳細は「イタリア内戦(1943年-1945年)(英語版)」、「イタリアにおけるレジスタンス運動(英語版)」、および「ヴェローナ裁判(イタリア語版)」を参照 連合軍と枢軸軍という観点においては「イタリア戦線」(Italian Campaign)と呼称される戦いは、家族兄弟が両軍に分かれて戦う「イタリア内戦(1943年-1945年)(英語版)」(Italian Civil War)としての側面を持っていた。イタリアの歴史学界においては冷戦終結後の1990年代から戦闘を「内戦」(La guerra civile)と定義する意見が主流になっている。内戦で自らのRSI軍や義勇軍がドイツ軍とともに勇敢な戦いを見せたことは「イタリアの名誉」を求めるムッソリーニに幾分の希望を与えたが、同時に反乱軍や王国軍兵士との内戦は民族の団結(ファッシ)という理想が失われる思いでもあった。 レジスタンスやパルチザンは民衆を巻き込んでテロや破壊工作を繰り広げ、ドイツ軍によるイタリア国民への残忍な報復を招いても、そうした人質戦略に意に介することもなかった。被害を住民に押し付けるパルチザン達の戦術は「銃を撃ち、そして消える」と皮肉られ、終戦直前まで広範な支持を得ることはなかった。対照的にムッソリーニはRSI軍の兵士達の憤慨を宥め、可能な限り報復を行わない様にRSI軍に厳命を下し、時にはパルチザンの指導者に恩赦を与えてすらいる。 またムッソリーニを悩ませたのはカール・ヴォルフSS大将ら親衛隊が直接統治を諦めておらず、RSI政府の権限に度々干渉しようとすることであった。実質的に連合軍の占領地として扱われていた南部の共同交戦国に比べ、RSI政府は徴税・軍備・警察など多くの行政権を委任された国家であり、ドイツ政府といえどもポーランドのように扱うことはできなかった。親衛隊は警護の名目で護衛小隊をムッソリーニの執務室周辺に配置したり、通話を盗聴して影響力を持とうとした。 RSI政府を形骸化させようとする親衛隊の占領計画を最後の一線で防いでいたのは、ヒトラーとムッソリーニの信頼関係であり、北部イタリア人にとってムッソリーニは「ドイツの傀儡」というよりは「最後の砦」ですらあった。ただしそれはムッソリーニがヒトラーに依存することも意味しており、クーデターに協力したガレアッツォ・チャーノ伯やエミーリオ・デ・ボーノ元帥の処刑、ユダヤ教徒保護政策の完全撤廃など、政治信条に反する行為をヒトラーの提案に応じて受け入れることもあった。 前者については党員はおろか、政敵ですら命を奪うこと(及びそれによって反論を許さないこと)を嫌ったムッソリーニにとって、後継者から外したとはいえ娘婿のチャーノを処刑するのはつらいことであり、長女エッダからの必死の嘆願にも心動かされていた。また杖なしでは歩けない体になっていた老将軍を処刑場に引きずり出して撃ち殺すのは悪趣味としか思えなかった。 しかしムッソリーニの人間的な甘さを懸念していたヒトラーも譲らず、共和ファシスト党内でも死刑は当然であるとの結論が下されていた。皮肉にも彼らの裏切りを許したのはムッソリーニだけであった。ヴェローナで行われた裁判(ヴェローナ裁判(イタリア語版))でカルッチオ・パレスキ(イタリア語版)、ルチアーノ・ゴッタルディ(イタリア語版)、ジョヴァンニ・マリネッリ(英語版)、チャーノ、デ・ボーノらに国家反逆罪による即時処刑が言い渡された。 死罪を言い渡された面々は処刑場の平原へと歩かされて椅子に座った状態で背を向けさせられ、共和ファシスト党員の銃兵隊によって銃殺された。ムッソリーニは無神論者ながら「罪人」とされた者達に祈りを捧げるようヴェローナの教会に頼んでいるが、その時のムッソリーニは顔面蒼白で今にも自分も死を選びかねない様子だったという。
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