ドイツ文学との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 11:04 UTC 版)
「ハイデルベルク」の記事における「ドイツ文学との関わり」の解説
「長く「ドイツ詩学の父」と仰がれた」(岡田/リンケ)マルティン・オーピッツ(Martin Opitz; 1597-1639)は、1619年から1620年まで大学生・家庭教師としてハイデルベルクに滞在した。 ヨハン・ハインリヒ・ユング=シュティリング(Johann Heinrich Jung=Stilling; 1740-1817)は、その自伝小説が時代を超えて読み継がれたが、ハイデルベルク大学教授として1784年から1787年まで農学(Landwirtschaft)を、1803年から1806年まで国家学(Staatswissenschaften)を講じた。 ゲーテは合計5度にわたりハイデルベルクに滞在している。60代に訪れた時には、『西東詩集』の詩篇を制作中であり、相聞歌を歌った相手のマリアンネ・ヴィレマーもハイデルベルク滞在中のゲーテを訪れている。ハイデルベルク城の庭には日本からヨーロッパに伝わった銀杏の木が植えてあり、ゲーテはマリアンネに一枚の銀杏の葉を、「一枚が二つに分かれたのか、二枚が一つに結んだのかわかりません」と言い添えて彼女に贈った。なお、「銀杏」を歌った詩 ”Gingo biloba” は彼女の継娘に送っている。 「ドイツ抒情詩の最高の作品を生みだしながら、生前には真価が認められなかった」(岡田/リンケ)フリードリヒ・ヘルダーリン (Friedrich Hölderlin; 1770-1843)は1795年ハイデルベルクで、フランクフルトの医師と知り合いになり、その紹介でフランクフルトの銀行家ゴンタルト家の家庭教師となった。彼はその家の夫人ズゼッテに、「彼が理想の時代として熱愛する古代ギリシャの女性をまのあたりに見る気がし」(手塚/神品)、彼女に多くの詩を捧げた。彼は頌詩『ハイデルベルク』を著わした。 「ドイツ語とドイツ小説にかつてない豊富な可能性を開いた作家」(手塚/神品)ジャン・パウル(Jean Paul; 1763-1825)は1817年と1818年の夏をハイデルベルクで過ごした。ハイデルベルク大学により名誉博士号を授けられている。 クレメンス・ブレンターノ (Clemens Brentano; 1778-1842)はアヒム・フォン・アルニム (Achim von Arnim; 1781-1831)とともにハイデルベルク・ロマン派の代表的人物である。彼らはハイデルベルクで『隠者新聞』(Zeitung für Einsiedler)を発行し、有名な『少年の魔法の角笛』(Des Knaben Wunderhorn)を出版した。 後期ロマン派の詩人で今日も愛唱されている詩歌の作者ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ (Joseph von Eichendorff; 1788-1857)はハイデルベルク大学で学び、クレメンス・ブレンターノやアヒム・フォン・アルニムと交友し、『少年の魔法の角笛』の編集に協力した。 自伝的教養小説の傑作を著わした ゲルトルート・フォン・ル・フォール(Gertrud von Le Fort; 1876-1971)はハイデルベルクの町と大学に魅せられ8学期間この大学で学んでいる。恩師である宗教哲学者エルンスト・トレルチ(Ernst Troeltsch)教授の死後、その遺稿『信仰論』を出版した。晩年、この地での学生時代を回顧して、ヘルダーリンを念頭に、「ハイデルベルクについて書くことは、私たちにとってほとんど不可能である。それが出来たのはただ一人の人である」と述べている。
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