トレンドリーダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:43 UTC 版)
レーサーとして活躍するかたわら、1963年に紳士服アパレルメーカーとして人気を博していたEDWARD’S(エドワーズ)の取締役兼企画部長を務めファッション・リサーチに専念、さらにファッション・モデルとしては小柄(170cm)ながらも端整な顔立ち、福澤諭吉の曾孫という経歴からモデルとしても有名となった。 当時ヨーロピアン調のファッションで人気だった男性ブランド『エドワーズ』創業者の倉橋一郎は、福澤幸雄のパトロンであり、倉橋の妻・佳子夫人は『主人は才能がある若者と出会うとすぐに力を貸したがる人でした。幸雄さんも20歳の頃からよく会社に出入りしていました。それはかっこよくて素敵な若者でしたよ。』と福澤を語っている。エドワーズの創業は1963年頃。大阪の生地問屋に勤めていた倉橋がデザイナーの小林秀雄と出会い、アメリカン・ファッションのVANに対抗したヨーロピアン調のファッションをテーマに東京にオフィスを構えた。ヨーロピアンの香りを持つ福澤は格好のイメージ・モデルであった。 ファッション界においても、福澤幸雄の登場は規格外だった、と、エドワーズの元専務・畑埜佐武郎が述べている。『幸雄には、新しい商品への意見を聞いたり欧米のファッション誌の情報をいち早く教えてもらったりしました。彼がパリやロンドンに行っているときは、本場の生の情報を送ってもらっていました』『1964年頃、幸雄は欧米のファッション界で活躍していた歳上のモデル、ピーター(松田和子)とパリで暮らしていました。私たちは欧州市場視察のためにパリに行きましたが、その任務の一つに、幸雄に給料を渡すことも含まれてました』と証言している。 エドワーズは、VANやJUNと比べれば売り上げ的には一桁違う存在だった。エドワーズはあえて大衆路線を避け、志向性の強いブランドイメージを訴えるため福澤に白羽の矢を立てた。日本人離れした風貌、『福澤』の血筋、そしてレース界とファッション界という最先端を疾走する若々しいイメージは『良質』を追求する贅沢感に満ちていると評された。 1967年からはエドワーズの中に『ボージェスト』という自分のブランドを立ち上げる。内容は、ヤングマン向けのスーツやセーター、シャツなどが展開された。 テレビCMの世界では、1967年から1968年にかけてマックスファクター for Men、ナショナル・パナソニックトランジスタラジオ、東レ、トヨタ・パブリカ(初代後期最終型・UP20型系)等のイメージキャラクターでもあった。 かまやつひろしや堺正章など、親交の深かったザ・スパイダースの人気の影の立役者でもあり、仕事で行く先々で取り入れた内外の知識や文化を、トレンドリーダーとして発揮させていた。 当時、芸能人・文化人たちのサロン的様相を呈していた東京・飯倉のイタリアン・レストラン「キャンティ」の常連であり、そこで内田裕也や加賀まりこ、川添象郎・光郎兄弟、杉江博愛(後の徳大寺有恒)など幅広い交友関係を培った。 キャンティ族の中でも特にかまやつとの親交は深かった。国際レースやファッションショーでヨーロッパでの活動が多かった福澤は、現地で見聞きした音楽、ファッション、ダンスに関する最新情報をかまやつに伝授。それはスパイダースへとフィードバックされ、やがて日本のポップス・シーンのトレンドとなっていった。ある時は一日15時間も時を共にしていたかまやつは、福澤幸雄のスタイルを『2つの派が分かれているとするなら、%の少ないほうを選ぶ。本当に好きな物を持っていたり、着ていたり、聞いていたりするのが自分一人だったらもぅ最高。それが価値観の基準だったような気がする』と福澤の嗜好を述べている。
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