キャンティ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 16:18 UTC 版)
「キャンティ (イタリア料理店)」の記事における「キャンティ族」の解説
キャンティは午前3時まで営業しており、遅い夕食をとる放送・芸能関係者から、客である政財界人に連れられて来る赤坂や銀座のホステスまでが来店して深夜に賑わった。店内にはヨーロッパのサロンのような自由闊達な雰囲気があり(浩史は「西洋のおでん屋」と表現した)、川添夫妻の人脈を介して映画監督、作家、音楽家、デザイナーなど各界の文化人が交流した。キャンティの常連客には、安井かずみ、加賀まりこ、コシノジュンコ、かまやつひろしらから、三笠宮殿下や島津久永、島津貴子御夫妻など、皇族関係者までが含まれた。 開店当時、六本木には在日米軍兵舎があり(現在も星条旗新聞や麻布米軍ヘリ基地(赤坂プレスセンター)がある)、アメリカ文化に惹かれる若者(六本木族)が集まるようになり、キャンティをはじめ、シシリア、ニコラス、ザ・ハンバーガー・イン、レオスといった料理店が溜まり場となった。キャンティのモットーは「子供の心をもつ大人たちと、大人の心をもつ子供たちのために作られた場所」。国籍・年齢・性別の異なる人々が集い、若者が大人の世界に触れ、一流の所作を学ぶ場となった。 ふと見ると隣の席では、フランク・シナトラやマーロン・ブランドなんかが食事してる。僕ら若憎は震えながら挨拶し、いろんなことを教わった。それはあたかも、真夜中の学校のようだった。 — かまやつひろし、『キャンティ物語』推薦文 彼らは浩史を「パパ」、梶子を「タンタン」(イタリア語で「おばさん」)と呼んで慕った。梶子は自立した女性のモデルとして加賀まりこ・安井かずみらの憧れとなり、ベビードールではグループ・サウンズや人気歌手(布施明、森進一など)の衣装デザインを引き受けた(「岩元梶子」名でザ・スパイダースの英語カヴァー曲の訳詞もした)。彼らはファッション・音楽など1960年代のサブカルチャーの先端をゆく「キャンティ族」として有名になり、キャンティは背伸びしたい年頃の若者が一度は訪れてみたい「伝説のレストラン」となった。 浩史の長男の川添象郎は父の文化事業を手伝い、最年少の常連客だった荒井由実(松任谷由実)のアルファレコードでのデビューをプロデュースした。荒井のセカンドアルバム『MISSLIM』のジャケット写真は川添宅で撮影しており、写っているピアノは梶子のものである。2004年(平成16年)には日本テレビ系列でスペシャル番組『あの日にかえりたい。〜東京キャンティ物語〜』が放送された。松任谷はナレーターのほか、キャンティ店内で梶子との想い出の曲というプロコル・ハルムの『青い影』を歌った。
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