トゥアレグ独立派とイスラム原理主義派の抗争
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「マリ北部紛争 (2012年)」の記事における「トゥアレグ独立派とイスラム原理主義派の抗争」の解説
6月6日夜から7日未明にかけて、アンサール・アッ=ディーンとMNLA間で初めての衝突が起こる。場所はキダルから数キロメートルの地点で、小銃の他に戦闘用車両2台が破壊され、少なくとも重傷3人を出す。6月13日、トンブクトゥの支配権をめぐりアンサール・アッ=ディーンとMNLA間で喧嘩がおき、これが銃撃戦に発展し少なくとも2人が死亡し、複数の負傷者が出ている。 6月25日、地元ガオ出身の教師イドリッサ・ウマル(Idrissa Oumarou)は現地で人気があるが、彼が町の郊外にある自宅に帰ったとき正体不明のオートバイから銃撃される。6月26日、ガオにて主にフラニ族とソンガイ族で構成される数百人は町を占領する武装勢力に対して抗議するためデモを起こす。イドリッサ・ウマルの葬儀後に暴徒化し騒動の結果、頭部に銃弾を受け重傷を負った2人を含んで二十数名が負傷する。MNLAはデモ参加者により攻撃の発端の元であると非難されるが、それを否定する。トゥアレグ独立派はMUJAOのせいであって自分達に責任はないと主張するなど、責任の所在は不明確なままであった。このように、ガオ市内では2012年3月の武装勢力の占領以来、MNLAとMUJAOの関係は極度の緊張状態に置かれ、町の統制や抑圧のため市内は不穏な空気に包まれることになる。 6月27日朝、ガオ市内で初めて両勢力同士による激しい戦闘が起きる。これによりMUJAOを中核とする急進的イスラム原理主義集団はアザワドの暫定知事が執務するMNLA本部を包囲する。その後、襲われトゥアレグ独立派は町から逃れる。MNLAはこの戦いでガオを喪失したことを認めるも、戦闘の継続を決定する。一方、この戦闘の暫定評価で最も重いからは、少なくとも死亡20人以上、数十人が捕虜となる。さらに負傷したMNLA事務局長ビラル・アグ・アチェリフは治療のためブルキナファソのワガドゥグーに移送され、部下の一人ブーナ・アグ・タイーブ大佐(Bouna Ag Tahib)は死亡した。発表文によると、6月27日夜、MNLA国際社会支援受付責任者ママドゥ・ジェリ・マイガ(Mahamadou Djeri Maïga)が主張するところによれば、AQIMとMUJAOの戦闘員らと交戦中であり、AQIM指導者モフタール・ベルモフタールは戦争のために武器と組織化をすすめ全攻撃を指揮している。ガオ市内はMUJAOの支配下に置かれMNLAは排除される。町は6月27日夜に平静に戻る。マリ暫定政府はこの事態にあって依然として無力の存在のままであった。6月29日にMNLAはモフタール・ベルモフタールの死亡を発表するが、AQIMの2012年7月7日の彼の署名がされた声明で死亡説は否定される。 7月上旬、数日前に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の危機状態にある世界遺産リストに分類されたトンブクトゥにある霊廟7つがアンサール・アッ=ディーンによって破壊される。 2012年8月、MUJAOは北部マリにある民間ラジオ局に対し世俗音楽(西洋的音楽)の放送禁止を宣言する。 8月下旬、イスラム武装勢力は南進しドゥエンツァ(fr:Douentza)を奪取する。 2012年11月16日、MNLAは戦闘を再開しメナカを拠点にMUJAOが占拠するアンソンゴに対し攻撃に出る。MNLA戦闘員はタガランガボット(Tagarangabotte)で待ち伏せ攻撃を行い初めての勝利を得るも、MUJAOはモフタール・ベルモフタール率いる増援部隊を得る。MNLAは次第に地歩を失い11月19日にメナカが占領される。この結果数十から数百人の死者が出たとみられる。
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