トゥアールとアンボワーズ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:56 UTC 版)
「トゥアール」の記事における「トゥアールとアンボワーズ家」の解説
トゥアール家が断絶すると、都市はアンボワーズ家の手に渡ったが短期間で、一連の陰謀の後、子爵ルイ・ダンボワーズはルイ11世に領地を没収された。ルイ11世はトゥーレーヌで幼少時代を過ごしており、1472年以降、友であるアルジャントン領主フィリップ・ド・コミヌとトゥアール周囲の森で狩りをするのがならいとなった。王位についたルイ11世はしばしばプレシ・レ・トゥール城におり、定期的にトゥアールに滞在した。子爵に対する陰謀が始まったのはこの時だった。ルイ11世は子爵ルイ・ダンボワーズの行動を支持しなかった。ルイ・ダンボワーズの豪華な生活と伝説的な道楽を批判した。トゥアール子爵は最初の妻ルイーズ・マリー・ド・リウーに面と向かって残酷な仕打ちをし、タルモンの城に投獄された。その後迎えた二度目の妻ニコル・ド・シャンブはすぐに毒殺されている(彼女はアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンソローの奥方』に影響を与えた)。 1469年、ラ・ブロス領主で子爵の名づけ子であるルイ・タンドと共謀し、王はいくつかの所有地の権利書を破壊し、フランス王領に子爵領を併合してしまった。その褒美として、ルイ・タンドは王の顧問に任命され、ボルドー高等法院の初代総裁となった。彼はまた、ルイ11世を繰り返し迎えて歓待した、美しい邸宅を建設している。ユーグ・アンベールによれば、オテル・タンドは、『イングランド王の住まい』と呼ばれていた12世紀の古い邸宅の基盤の上に建設されたようである。 1470年5月には、ルイ11世がニコラ・ド・ロレーヌと長女アンヌ・ド・フランスの政略結婚を決め、トゥアール子爵領をアンヌに結婚持参金として授けた。1473年7月27日のニコラの死まで子爵領はアンヌのものだった。1476年からルイ11世が直接統治を始め、町は刷新と繁栄の時代を迎えた。さらに、1478年12月29日、王はトゥアールに王の本拠地を置くよう命じたのである。中世の城の城壁が復元され、サン・ラン教会が印象的なゴシック様式の尖塔を採用したのはこの時期である。しかし、サン・ラン教会が特別な名声を得ることができたのは、王太子妃マルグリット・デコスのおかげである。彼女は礼拝堂を建設させ、亡くなって数年後には教会の墓に埋葬されている。 町では人々が往来する主な道路は改善されていった。ポン・ヌフ(現在のポン・デ・シュアン)は強固にされ、都市南東からの往来を保護していた。 自らの寿命が尽きる前に、ルイ11世は正当な所有者にトゥアールを返還することにした。ルイ・ダンボワーズの孫ルイ2世・ド・ラ・トレモイユが子爵に返り咲いたのである。
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