ツヒンヴァリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:22 UTC 版)
「南オセチア紛争 (2008年)」の記事における「ツヒンヴァリの戦い」の解説
詳細は「en:Battle of Tskhinvali」を参照 8月8日の早朝、グルジア軍はツヒンヴァリに向けて、作戦名「地域一掃作戦」(Tsminda Veli, 英: Operation Clear Field) と呼ばれる軍事行動を開始した。グルジア軍はツヒンヴァリ周辺の高地にある南オセチア支配下の村をいくつか占領した。 8時、グルジア軍の歩兵および戦車がツヒンヴァリに侵入し、駐留するオセチア軍およびロシア軍と激しい戦闘になった。朝の内に、グルジアは声明を発表し、ツヒンヴァリを包囲し、南オセチアの8つの村を占拠したと伝えた。グルジアの公式発表によると、10時には1500人のグルジア陸軍がツヒンヴァリの中央部に進入した。ただし、それ以上の進軍は阻止され、3時間後にはロシア軍の大砲と空爆により退却を余儀なくされた。 一方グルジア側は、午前10時頃、ロシア軍の航空機がグルジアの領空を侵犯したと発表している。 昼の12時15分、南オセチアの合同平和維持軍(Joint Peacekeeping Forces, JPKF)のロシア人司令官マラート・クラフメートフ将軍はOSCEに対し、自分の部隊が攻撃を受けており、死傷者が出ていることを報告している。ロシア軍の公式報道によると、ツヒンヴァリに配置されたロシア平和維持軍兵士13人が死亡、35人が負傷した。南オセチアにはロケット砲を含む激しい砲撃が加えられ、ツヒンヴァリの多くが破壊された。ロシア側のメディアが報じたところによると、グルジア軍によるツヒンヴァリへの攻撃は広範囲にわたっている。ロシア軍は平和維持軍基地が攻撃され、「グルジア軍による殺戮行為」を受けた南オセチア市民を守るための行動を開始すると発表した。その発表によると、グルジア軍の砲撃によるツヒンヴァリでの死者は2,000名以上である。そのうち民間人が何人であったかは情報源により異なっているが、ツヒンヴァリにある病院の医者は、44名の死者が運び込まれたと証言している。その医者によれば、病院は18時間にもわたって火災に襲われた。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の報告によると、病院はBM-21ロケットランチャーによる攻撃を受けている。 BBCはグルジア軍がツヒンヴァリを攻撃するに当たって、民間人を意図的に攻撃したという確かな証拠が見つかったと報じている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、グルジア軍が民間人避難用の地下シェルターに対して攻撃したとの証拠をつかんだと発表している。 午前2時頃、国際報道機関はロシアの戦車がロキトンネルを通じて進んでいることを報じた。ロシアの上級報道官によると、8月8日の夜明け前、ロシア軍の初動部隊として第135連隊に対し、ロキトンネルを通ってツヒンヴァリのロシア軍を強化するよう命令が下り、実際にロキトンネルを通過した時刻は午後2時30分頃であった。ツヒンヴァリに到着したのは日没後であり、そこでグルジア軍による激しい抵抗にあったという。一方でグルジア側は、トンネル付近でロシア軍と激しい戦闘になったのは、8月8日の夜明けより大分前とのことであった。 8月8日夜の間中、ツヒンヴァリを中心とした南オセチアで激しい戦闘が行われた。南オセチアの町や村での戦闘には、地元義勇兵や志願兵も加わり、ロシア軍はグルジア本軍との戦闘に当たった。ロシア軍はグルジア軍の砲兵隊も攻撃し、ロシア空軍はグルジア軍の司令部を爆撃した。ロシアの特殊部隊が報じたところによると、グルジア軍はロキトンネルの破壊を企て、南オセチアに援軍が行くのを防ごうとした。 ロシア軍がロキトンネルを通って進軍する間にもグルジア軍としばしば遭遇した。8月9日、ツヒンヴァリでは激しい戦闘が続き、グルジア軍からも戦車部隊による激しい反撃があった。徐々に戦闘は激化し、この日の終わりには南オセチアではロシア軍はグルジア軍の2倍にまで増えた。 ロシアの英文雑誌『モスクワ防衛の真実』によると、8月10日の朝、グルジア軍はツヒンヴァリの大部分を押さえ、オセチア軍とロシア平和維持軍を北方へと追いやった。しかし、時間が経つにつれロシア軍が優勢となり、これがこの戦争の転換点になった。8月10日の夜にはツヒンヴァリからグルジア軍は一掃され、市の南方に引き下がった。要地であるプリシ高地(Prisi heights)もまたロシア軍が占拠した。グルジアの砲兵隊も大部分が敗れた。その間にオセチア軍はロシア軍の支援を受け、アケアベチ(Achabeti)、ケヒヴィ (Kekhvi) 、クルタ (Kurta) 、タマラシェニ (Tamarasheni) といった、南オセチア北部からツヒンヴァリまでの地域を占領した。グルジア軍の残存部隊もやがて沈黙した。最後に残ったツヒンヴァリ北部のツェモ=ニコシ(Zemo-Nikosi)のグルジア軍も破られた。その後もグルジア軍は数箇所の高地からツヒンヴァリに砲撃を加えた。それも8月11日の終わりには完全に駆逐され、南オセチアからグルジア軍は撤退した。ロシア軍は翌朝には南オセチア外のグルジア領内にまで侵入した。グルジアの残存部隊は、ツヒンヴァリとグルジアの首都トビリシの間にあるゴリに集結した。 一方、グルジアの防衛長官によると、ツヒンヴァリへの侵攻は3回行われた。最後の攻撃は、グルジアの公式発表によると地獄さながらであった。結局、ツヒンヴァリの占領は3昼夜で終わり、グルジアの砲撃隊は全滅または撤退し、ツヒンヴァリ市外へと撤退した。
※この「ツヒンヴァリの戦い」の解説は、「南オセチア紛争 (2008年)」の解説の一部です。
「ツヒンヴァリの戦い」を含む「南オセチア紛争 (2008年)」の記事については、「南オセチア紛争 (2008年)」の概要を参照ください。
- ツヒンヴァリの戦いのページへのリンク