ツビカ・グリンゴールド中尉の戦い
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「ナファク基地攻防戦」の記事における「ツビカ・グリンゴールド中尉の戦い」の解説
本項では、ナファク基地攻防戦序盤においてイスラエル軍における最殊勲を修め、さらに一週間後の戦線復帰より第188旅団の再編成に努めた戦後最大の戦車エースであるグリンゴールド中尉について記述する。 1973年10月6日、兵役満了を残り一ヶ月に控え、贖罪日の休暇でキブツの実家に帰省中であった21歳のグリンゴールドは、ラジオにてエジプト・シリア軍の侵攻を知るや否や、ヒッチハイクでナファク基地へ到着。駐屯兵力はすでに大規模な損耗に至っていた中、グリンゴールドはセンチュリオン・ショット・カルの可動車一両とウス少尉が搭乗する車両の計二両にて「ツビカ隊」を組織、第188旅団長イツハク・ベンショハム大佐の指揮のもとタップライン道沿いに進撃しシリア戦車隊の迎撃に入った。21:00前後にT-55を主幹とするシリア軍戦車6両を撃破するも、車両に電気系統故障が発生。グリンゴールド他搭乗員はウスと車両を交換し(ウスはナファクへ一度帰還)、以後単騎による戦闘に入る。シリア戦車隊を発見し、稜線射撃を主軸とした陣地転換射撃戦術で22:30頃の予備役戦車隊との合流までに10両以上の戦車と補給車とを撃破する(なおこの間、第188旅団からの通信があったものの、傍受を恐れたグリンゴールドは単騎戦闘であることを秘匿している)。予備役戦車隊と合流した直後、赤外線暗視装置を搭載したシリア軍の先制攻撃により増援戦車隊の半数以上の戦車が撃破され、部隊は壊滅。再度グリンゴールドと搭乗員は車両を乗り換えて小隊を即席で編成し戦闘を継続。7日早朝にイスラエリ中佐自らが率いる旅団本隊と合流するとシリア・イスラエル両軍残存部隊による総力戦に加わる。この戦闘でナファク基地をめぐる武力紛争は一時終結したが、帰還できた車両はグリンゴールド車を含めて二両のみという惨状であり、またベンショハム大佐およびイスラエリ中佐も戦死、正午の時点で将校の9割が死傷したことにより第188旅団は事実上壊滅した。この状況に恐慌を来した操縦手は車両から離脱、グリンゴールド自身も昏倒し病院へ後送された。 なお、この20時間にも及ぶ戦闘におけるグリンゴールドの会敵数は戦車・装甲車を合わせて200両、撃破スコアは自己申告で20両、後世の研究では共同撃破も含め30強~60両を退けたともされている。この功績により、戦後にグリンゴールドは武勇記章を与えられている。
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