ターリバーンによる破壊
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「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群」の記事における「ターリバーンによる破壊」の解説
1979年のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻以後は、アフガニスタンへの外国人の立ち入りは難しくなり、外国の学術機関による調査および保存事業は中断した。1980年代以降に発生した内戦においてバーミヤーン市はハザーラ人勢力の拠点となり、90年代には内戦の激化にともない遺跡の周囲にも多くの地雷が埋設されるなど状況は悪化し遺跡の破壊が憂慮されていた。 バーミヤーンはターリバーンによって1998年に占領された。ターリバーン政権がアフガニスタンの大部分を平定したことにより内戦の終結が期待されたが、その一方でターリバーンはイスラム教の戒律の下にパシュトゥーン人の古い慣習を国民に強制し人権侵害との非難を受け、アメリカ合衆国に対する国際テロの指導者とみなされていたウサーマ・ビン・ラーディンを庇護するなど国際社会において孤立しつつあった。 2001年2月26日にターリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてバーミヤンの大仏(磨崖仏)を破壊すると宣言した。この声明に対して世界中の政府及び国際機関に加え、諸外国のイスラム指導者たちからも批判が寄せられた。国際連合総会は、全会一致で破壊を中止する決議A/RES/55/243を採択した。 ターリバーンの高官だったアブドゥル・サラム・ザイーフによると、中国、スリランカ、日本の代表団が破壊の中止を求めて訪れており、特に日本国政府は積極的かつ具体的で大仏の国外への移転や視認できないように隠すことを提案していたとされる。しかしターリバーンはこれら国際社会や他のイスラム世界からの批判を無視し、3月2日に2体の大仏の破壊を始めた。 破壊の様子が映像で撮影されており、撮影者もしくは他の人物が「アッラーフ・アクバル」と唱えている中で爆破される大仏の映像は、世界中に配信された。 2012年5月16日、ターリバーン政権勧善懲悪省のカラムディン元長官は単独で記者会見を行い、この破壊について「大仏破壊は正しい決断ではなかったと今だから言える」「当時の政権幹部は望んでいなかったが、外国から来た兵士たちが政権より力を持っており、彼らが決めた」と述べた。 ターリバーンの文化財保護に対する意識の欠如が強く批判される一方で、内戦中に多くの餓死者が出ていたアフガニスタンに対して国際社会が無関心であったことを批判する者もいる。イランの映画監督であるモフセン・マフマルバフの作品『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』においてマフマルバフは、100万人の餓死者よりも、一つの仏像の破壊が、世界に注目されたことへの苛立ちを表明している。 私は、ヘラートの町の外れで、2万人もの男女や子供が、飢えで死んでいくのを目の当たりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、皆が地面に倒れて、ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は、アフガニスタンの最近の旱魃である。同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本人女性(緒方貞子)もこの2万人のもとを訪れ、世界は彼らの為に手を尽くすと約束した。3ヵ月後、この女性がアフガニスタンで餓死に直面している人々の数は、100万人だと言うのを私は聞いた。 ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱の為に崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人々に対し、世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。 — モフセン・マフマルバフ またターリバーンが強硬な姿勢をとった背景として、ムハンマド・オマルなどターリバーンの指導者に対して、庇護下にあったウサーマ・ビンラーディンの影響力が強まったことが原因であるとも指摘されている。
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