セリエA時代
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2003-04シーズンはサンプドリアでリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わった。クラブ側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団、引き続き海外でのプレーを希望し、同セリエAのFCメッシーナと契約、鹿島からの1年間の期限付き移籍の形をとった。 2004-05シーズンはメッシーナ移籍後、8月22日コッパ・イタリアの1回戦でアチレアレから1ゴール1アシストの活躍でイタリア公式戦初ゴールをあげ、レッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載るなどしたが、 リーグ戦では22試合で無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の招集がかからなくなった時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの招集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、W杯出場のかかった6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりの決勝ゴールを挙げた。またコンフェデレーションズ杯のメキシコ戦では難易度の高いゴールを決める活躍を見せた。 2005-06シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望し、メッシーナに完全移籍を果たす。ただ、この時はメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。シーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれるなど、一定の評価を得ていたが、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しい時期が続いたが日本代表に招集されたホンジュラス戦では2ゴールを挙げるなどの活躍もみせた。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。
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セリエA時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:04 UTC 版)
2015年に新加入したフアン・クアドラードと入れ替える形でACFフィオレンティーナへレンタル移籍した。加入後の7試合で6得点1アシストと得点力不足のフィオレンティーナの救世主となった。 2014-15シーズン終了後、フィオレンティーナはレンタル延長のための金額をチェルシーへ払い込んだがサラー側はこれを無視してフィオレンティーナに対するシーズン前の練習への出席確認をしても返答をしなかった。そのため、7月3日、フィオレンティーナは、サラーに対し法的措置を執るとの公式声明を発表した。この問題はこじれにこじれフィオレンティーナを無視してサラーと接触したインテルに対してフィオレンティーナ幹部が激しく非難するなど問題は悪化の一途をたどった。 2015-16シーズン開幕前の2015年8月6日に買取オプション付きでASローマへレンタル移籍したが、その後もフィオレンティーナはチェルシーの取引は違反であるとしてFIFAに抗議した。 ローマでは加入後からレギュラーとして活躍。2015年10月25日には首位を走る古巣フィオレンティーナとのアウェー戦で先制点を挙げ、イエローカード2枚を受け退場したもののローマの勝利と首位浮上に貢献した。2015-16シーズンは全42試合に出場しチームトップの15得点と6アシストを挙げ、ローマのシーズン最優秀選手に選ばれた。2016年8月3日にはローマが1500万ユーロの買取オプションを行使し完全移籍。2016-17シーズンもボローニャ戦でローマの全3得点を挙げるハットトリックを達成するなど、全41試合で19得点を挙げる活躍を見せた。
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