スクーナとブリガンティン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 01:03 UTC 版)
「ウエストバージニアの水運」の記事における「スクーナとブリガンティン」の解説
1792年ピッツバーグのkeelboat造船業者タラスカン・バーサウド会社が120トンのアミティと250トンのピッツバーグというスクーナーを建造した。1793年、これらの船は小麦粉を積んで、1隻はヴァージン諸島セント・トーマス島へ、1隻はフィラデルフィアに送られた。翌年その会社のブリガンティン、200トンのナニナと350トンのルイジアナでは、バラストに使われた石炭がフィラデルフィアで1ブッシェル37.5セントで売却された。最大の船は400トンのブリガンティンのウェスタン・トレーダーだった。1803年以前、斜桁付き70トンのスクーナドーカス&サリーがホィーリングで建造され、マリエッタで艤装された。また130トンのメアリー・アベリーがマリエッタで建造された。100トンのスクーナ、ナンシーは1808年6月27日にホィーリングで進水し、外輪船時代の前に特にリトルカノーハ川で活躍した。異常なくらい長いブラック・ウォルナット(クログルミ)の木材が船殻建造に使われ、海岸地域の船主の監視員の日誌に書かれているところでは、当時大西洋岸で使われた重いオーク材よりも幾分軽くて同じくらい強かった。東海岸から既に川に沿った原生林の造船所に本拠を移していた者達に、ロードアイランドの造船工がこの頃に加わった。これらウォルナット船殻のスクーナの幾艘かは積荷と共に売却され、さらに幾艘かは艤装されて沿岸警備用カッターとされたり、米英戦争の時には私掠船として使われ、1艘はカリブ海で活躍した。1845年1月、イギリスのリバプールは他国商船拿捕免許状を持った船の母港とは考えられず、その地形によって海賊でもないことを示したが、そこでマリエッタで建造された350トンのバーク船、マスキンガムが歓迎された。これはオハイオ川の乗組員にとって初めての歓迎だった。この時期にシンシナティで建造されたものの最大はニューオーリンズの船主のための850トンシップ、ミネソタだった。蒸気駆動の外輪が施された。地元で造られ地元の乗組員を乗せたバーク船が南北戦争前にアフリカまで行ってカノーハ地域に戻ってきた。これら大型の船は春の洪水期に運航し、それ以前の通常のスクーナが停泊時喫水が11フィート (3.3 m)以下が可能だったのに対し、もう少し喫水が深かった。初期オハイオ渓谷の船荷は、小麦粉、燻製牛肉、樽に塩漬けされた豚肉、ガラス製品、鉄、クログルミ材の家具、野生のサクラやキハダカンバおよび様々なアルコール飲料があった。ばら積み貨物は船底の平らで方形のジョンボーツに積まれ、目的地に応じて木枠で抑え、さらに積荷の積み卸しのためにダビット装置を必要とした。ウェストバージニア西部の大きな低地の船積み場からソルガムやケンタッキー産のタバコが大量に輸出されたのがこの時期であった。
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