スイス移住と『ニューヨークの王様』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「スイス移住と『ニューヨークの王様』」の解説
私は強力な反動的グループによる虚偽と悪意あるプロパガンダの対象にされてきた。彼らは自らの影響力とアメリカのイエロー・ジャーナリズムの助けで、リベラルな考えの人々を選び出して迫害することを許す不健康な空気を作り出している。このような状況下では、映画製作を続けることは事実上不可能であり、アメリカに居住することを諦めました。 チャールズ・チャップリン、アメリカに戻らないという決定に関する声明 チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、アメリカに戻ろうとはせず、代わりにウーナをロサンゼルスに送って、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させた。チャップリン一家はスイスに移住することに決め、1953年1月にレマン湖近くにある村コルシエ=シュル=ヴヴェイ(英語版)にある、広さ14ヘクタールの邸宅マノワール・ド・バン(英語版)に居を定めた。同年3月にビバリーヒルズにある家とスタジオは売りに出され、4月にアメリカへの再入国許可証を放棄した。1955年にはユナイテッド・アーティスツの残りの株式を売却し、アメリカとの最後の仕事上の関係を断ち切った。 1950年代もチャップリンは、世界平和評議会から国際平和賞(英語版)を受賞したり、周恩来やニキータ・フルシチョフと会談したりするなど、物議を醸す人物であり続けた。1954年にはヨーロッパでの最初の作品となる『ニューヨークの王様』の脚本執筆を始めた。チャップリンは国を追われてアメリカに亡命した国王を演じ、自身が最近経験したことのいくつかを脚本に取り入れた。チャップリンの息子のマイケルは、両親がFBIの標的にされた少年役にキャスティングされ、チャップリンが演じた国王は共産主義の告発に直面するという設定だった。また、チャップリンは非米活動委員会をパロディ化し、アメリカの消費主義や大画面映画なども攻撃した。劇作家のジョン・オズボーン(英語版)は、それを「チャップリンの映画の中で最も辛辣」で「公然たる個人的映画」と呼んだ。1957年のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言した。 チャップリンは『ニューヨークの王様』を作るために新しい製作会社アッティカを設立し、ロンドン郊外にあるシェパートン撮影所(英語版)をスタジオに借用した。チャップリンは今まで自分のスタジオで気心の知れたスタッフと映画を作っていたため、仲間がほとんどおらず、スケジュールにも縛られたイギリスでの撮影は困難な仕事となった。それは映画の完成度に大きな影響を及ぼした。作品は1957年9月にロンドンで初公開され、さまざまな評価を受けたが、ヨーロッパではヒットした。チャップリンはパリでの初公開時にアメリカの記者を追い出し、1973年までアメリカで上映しなかった。
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