スイス盟約団の対立とは? わかりやすく解説

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スイス盟約団の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 17:25 UTC 版)

フルドリッヒ・ツヴィングリ」の記事における「スイス盟約団の対立」の解説

ツヴィングリチューリッヒ市達成され改革を、他のスイス都市にも波及させようとしたが、さらに急進的な改革求めグループ(後のアナバプテスト)や神学理解で溝が広がっていたルター派対立することになった政治的にもこの時期スイス国内の諸州はカトリック教会支持派プロテスタント支持派分かれて対立姿勢示し始めていた。もともとスイス連邦中央集権的な連邦制度ではなく、諸州がゆるやかに統合されている政治形態であったため、チューリッヒ始まったプロテスタンティズム波及スイス諸州間の対立もたらすことになった当初対立関係話し合いによって解消しようという努力が行われた。カトリック側の森林五州とフリブール州呼びかけバーデン当事者たちが集まり対話行ったツヴィングリ自身出席しなかったが、カトリックとプロテスタント双方意を尽くし議論でも問題解決することはできなかった。討論自体カトリック側の優勢終わったが、それとは関係なくバーゼルベルン改革進められた(バーゼル滞在していたエラスムスカトリックから離れていく改革受け入れられず、1529年同地去った)。 さらに1528年行われたベルンでの討論会では、プロテスタントの代表が集まって信仰理解について議論行ったツヴィングリルター派との溝を深めたが、スイス盟約団のプロテスタント諸州による同盟キリスト教ブルフレヒト」の結成という成果見た。これを危ぶんだカトリック諸州とフリブール対抗して1529年に「キリスト教連合」を結成した武力衝突危険性高まった本格的な武力衝突危機第一次カッペル和議によってなんと回避された(第一次カッペル戦争)。 そのころドイツヘッセン方伯フィリップカール5世打倒すべくプロテスタントによる大同盟の結成構想ツヴィングリたちも引き入れるため、対立していたツヴィングリルター和解させよう考えて会談の場を提供した1529年10月ツヴィングリルター2人不承不承ながらマールブルク対談行った。しかし聖餐理解において決裂し会談物別れ終わった。自らの力を頼むところが多かったツヴィングリは、当時チューリッヒベルン主導権をとってスイス全域支配できる考えていた。しかし、同盟者を必要としないツヴィングリ態度危惧したベルンチューリッヒから離れた。それでもツヴィングリ意に介さずカトリック諸州の経済封鎖行った

※この「スイス盟約団の対立」の解説は、「フルドリッヒ・ツヴィングリ」の解説の一部です。
「スイス盟約団の対立」を含む「フルドリッヒ・ツヴィングリ」の記事については、「フルドリッヒ・ツヴィングリ」の概要を参照ください。

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