ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ
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「ジョーン・ジェット」の記事における「ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ」の解説
ジェットはラグナの助けを借りてザ・ブラックハーツを結成した。彼女はLAウィークリーに「3人のイカした男を探している」という広告を出した。Xのジョン・ドゥー (John Doe) が、ロサンゼルスのS.I.R.スタジオで開かれたベースのオーディションに審査員として参加した。彼は(当時の)最近のお気に入りである地元のベーシスト、ゲイリー・ライアンの名を挙げた。ライアンは、ロサンゼルスのパンクシーンにおいて不可欠の存在で、地元のアーティストのトップ・ジミー (Top Jimmy) やリック・L・リックと演奏していた。彼は、ランナウェイズとジェットの長年の大ファンであった。ジェットはオーディションでライアンを評価し、彼の加入が決まった。ゲイリーは、当時リック・L・リックのメンバーだった、ギタリストのエリック・アンベルを推薦した。初代ブラックハーツに最後に加入したのは、悪名高いサンフランシスコのバンド、ジ・アヴェンジャーズ (The Avengers) の元メンバー、ドラマーのダニー・"フューリアス"・オブライエンであった。このメンバーでハリウッドのゴールデンベアとウィスキー・ア・ゴーゴーで何度かギグを行なった後、初のヨーロッパツアーに向った。オランダで広範囲な演奏旅行を繰り広げ、ロンドンのマーキーなどイングランドの要所でショーを行なった。 ジェット、ライアン、アンベルはアメリカに戻ると同時にニューヨークのロングビーチに移ったが、オブライエンは他の事に興味を惹かれイングランドに残った。オーディションにより、ボーイフレンズとシルヴェイン・シルヴェインの元メンバーだったリー・クリスタルが、新しいドラマーとして加わった。ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツはアメリカ全土をツアーし、ニューヨークで多くのファンを獲得した。ジェットとラグナは、すぐに個人の貯蓄をはたいてジョーン・ジェットのアルバムをプレスし、自主配布のシステムを作り上げた。時には、コンサート終了後にラグナのキャデラックのトランクからアルバムを売りさばいた。ラグナは、ジェットのアルバムの需要に着いて行けなくなっていた。最後には、旧友でカサブランカ・レコーズ (Casablanca Records) の創設者であるニール・ボガート (Neil Bogart) の協力を仰ぎ、共同事業を興した。新しいレーベル、ボードウォーク・レコーズ (Boardwalk Records) とジェットは契約を結び、ファーストアルバム『ジョーン・ジェット』(Joan Jett) は『バッド・レピュテーション』(Bad Reputation) として再発売された。その年末にザ・ブラックハーツは、アルバム『アイ・ラヴ・ロックン・ロール』(I Love Rock 'n' Roll) をレコーディングした。レコーディング中に、ギタリストがアンベルから地元のリッキー・バードに替わった。アンベルは、後にデル・ローズの創立メンバーとして成功し、更に多種多様なバンドのプロデューサーとして働いた。彼は、現在自身のバンド、ザ・ヤイフーズでプレーし、2000年から2005年まではスティーヴ・アール (Steve Earle) のバンド、デュークスのメンバーであった。 バードをギターに迎え、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツのヒット・アルバムは収録された。ニュー・シングルは、タイトル曲「アイ・ラヴ・ロックン・ロール」(I Love Rock N' Roll) の再録だった。この曲は1982年前半に7週間ビルボードヒットチャートのトップを飾った。2008年のビルボード50周年記念に公表されたオールタイム・トップソングでも56位にランクされている。それに続くシングル、トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズのカバー「クリムズンとクローバー」も全米7位を記録。 American Top 40もこれに続き、ポリス、クイーン、エアロスミス達と帯同したツアーは、ソールドアウトとなった。ジェットは1969年、ルーマニアのブラッド・スウェット・アンド・ティアーズに続き、あらゆるジャンルを含めて鉄のカーテンを越えて演じた2人目のアメリカ人となった。彼女は、パナマとドミニカ共和国でプレイした最初の英語圏ロッカーの1人でもある。 自身のMTV大晦日スペシャルを受けた後、ジェットは多くのライバルを尻目にマイケル・J・フォックスの主演映画『愛と栄光への日々』への出演を勝ち取った。ブルース・スプリングスティーンは、ジェットのために主題歌を書いた。彼女の演技は高く評価された。この頃、ライアンとクリスタルがザ・ブラックハーツを去っている。彼らが抜けた穴は、トミー・プライスとカシム・サルトン (Kasim Sulton) の強力なリズムセクションによりすぐに埋められた。同年の後半、ジェットはビーチ・ボーイズ、シュガーヒル・ギャング (The Sugarhill Gang)、ダーレン・ラヴ (Darlene Love) が参加したアルバム 『グッド・ミュージック』(Good Music) をリリースした。 ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツは、ブロードウェイのラント・フォンタン劇場 (Lunt-Fontanne Theatre) でコンサートを開いた最初のロックバンドとなり、当時のチケット完売最短記録を破った。次のアルバム『アップ・ユア・アレイ』(Up Your Alley) はアメリカでプラチナムディスクを獲得し、続く『雨を見たかい』(The Hit List) は、カヴァー曲を集めたアルバムであった。この間、アリス・クーパーの1989年のアルバム『トラッシュ』(Trash) に収録されている「House of Fire」を共同執筆した。 ザ・リプレイスメンツ (The Replacements) のポール・ウェスターバーグ (Paul Westerberg) が参加した1991年発売のアルバム『ノトリアス』(Notorious) を最後に、ジェットはCBS・ソニーからワーナー・ブラザース・レコードに移籍した。この時期にリリースされた、ジェットとウェスターバーグ共演のCDシングル「Let's Do It」は、映画『タンク・ガール』のサウンドトラックとして使用されている。1993年、ジェットとラグナは自身のブラックハート・レーベルの様々な曲を編集したコンピレーション・アルバム『Flashback』をリリースした。 ジェットは、自身のデビュー前にいくつかのバンドをプロデュースし、ブラックハート・レーベルからスラッシュメタルバンド、メタル・チャーチ (Metal Church) やラッパー、ビッグ・ダディ・ケインなど、様々なアーティストのレコードをリリースしている。 マスコミはジェットを「パンクのゴッドマザー」、「元祖ライオット・ガール」(Original Riot Grrrl) と喧伝した。1994年、ベイブズ・イン・トイランドのキャット・ビーエランド、L7のドニータ・スパークス、ビキニ・キル (Bikini Kill) のキャサリーン・ハンナと共作した曲が収録された、評価の高かったアルバム『ピュア・アンド・シンプル』(Pure and Simple) をリリース。
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