ジョージア方面軍
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「プラスキ砦の戦い」の記事における「ジョージア方面軍」の解説
砦の平面図、外形と三角堡がわかる 南東の胸壁、南壁の砲座 8インチ臼砲、夜襲に備える 防弾材、跳ね返り防止に溝が切られている 1861年1月3日、ジョージア州がアメリカ合衆国から脱退する16日前、志願兵民兵が連邦政府からプラスキ砦を奪った。南軍は砦を修復し、武装を強化し始めた。1861年後半ジョージア方面軍指揮官アレクサンダー・ロバート・ロートン将軍がリッチモンドへ転籍になった。11月5日、ロバート・E・リー将軍が新設されたサウスカロライナ・ジョージア・フロリダ方面軍の指揮官に就いた。 ロートンが10月に書いた報告書には、サバンナ周辺で2,753名の将兵を挙げており、方面軍のほぼ半分だった。ジョージア第1正規兵連隊はタイビー島に割り当てられた。この部隊はタイビー島に砲台を建設し、海浜にある見張り台と共にその守備に就いた。この連隊はバージニアに転属となり、1861年7月17日に出発した。オルムステッドの「ジョージア第1志願兵連隊」が、北軍に包囲された間を通じて、プラスキ砦の守備に就くことになった。 プラスキ砦は厚さ7フィート半 (2,290 mm) の壁と補強の石桟橋があり、無敵と考えられていた。ロバート・E・リー将軍が以前にオルムステッド大佐と共に砦の防御度を調査しており、「敵の砲弾でかなり暖かくなるかもしれないが、あの距離ではこの壁を破れない」と判断した。広く沼のような湿地が砦の全面を囲み、固有のワニが群がっていた。攻撃する船は射程範囲に近づけず、陸の砲台は1, 2マイル離れたタイビー島より近くには置けなかった。700ヤード (630 m) 離れると、滑腔砲や臼砲では砦の厚い石造壁を破るチャンスはほとんど無かった。1,000ヤード (910 m) を超えると、全くチャンスは無くなった。アメリカ工兵隊長であるジョセフ・ギルバート・トッテンは「ロッキー山脈に砲撃するようなものだ」と言ったといわれている。包囲戦に成功するとすれば、守備隊を飢えさせて降伏に追い込むしかなかった。 砦の守備隊任務は、訓練されていない兵士が遅れを取り戻すことに宛てられた。例えば5月にある新聞特派員が次のように報告していた。南軍兵は早朝に重い大砲を砲架に載せるような重労働で費やされた。続いて重砲での教練が1時間半あり、実際に1マイルか2マイルの砲弾を放つ。各砲員の習熟度は「射撃訓練」本で辿られた。兵士は砲術を試験され、その後1時に昼食を摂った。輪番の疲れた部隊は歩兵戦術について士官による照査に戻り、1時間の教習があった。6時に「召喚」された。続いて「正装行進」で退却し、戦闘隊形の展開など歩兵訓練を行う、その後に夕食となり、その後の1時間で軍規則の唱和があり、9時に就寝となる。 ロバート・E・リー将軍はサウスカロライナ、ジョージア、およびフロリダの海岸方面軍指揮官としてサバンナに本部を置いた。軍務の初期に建設を支援していた砦に戻って来ていた。同じ場所に造られた前の砦をハリケーンが破壊していったので、砦の周りの海水と溝で繋ぐことを提唱していた。リーはその地域の土や海の潮汐を知り尽くしていた。
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