シルクロードの探検家たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)
「中央アジアの美術」の記事における「シルクロードの探検家たち」の解説
19世紀後半から20世紀前半にかけて、ロシア、ヨーロッパ諸国、日本などの地理学者や探検隊が相次いでタリム盆地への調査旅行を行った。こうした調査により、砂漠におおわれた不毛地帯、世界史の空白地帯と思われていたこの地の文化に光が当てられ、東洋学の発展に貢献することとなった。一方で、これらの調査隊が貴重な壁画や塑像を現地の石窟から自国へ持ち去ったことは、文化遺産の破壊・略奪行為であるとして非難する声もある。 早い時期から中央アジアの探査を開始したのは帝政ロシアであった。セミョーノフは1856年から翌年にかけて天山山脈方面を調査。ブルジェワルスキーは1870年以降1885年にかけて5次にわたり、天山南路、モンゴル、甘粛、北チベットなどの調査を行っている。楼蘭遺跡の発見者として著名なスウェーデン人地理学者のスヴェン・ヘディンはリヒトホーフェンの弟子であり、ベルリン大学で地理学を学んだ。ヘディンは1893年から1934年にかけて5次にわたりタリム盆地の調査を行っており、幻の湖とされていたロプ・ノール(ロプ湖)が「さまよえる湖」であるという説を提唱した。敦煌の調査で知られるオーレル・スタインはハンガリーの生まれで、後にイギリスに帰化した。スタインはウィーン、ライプツィヒ、オックスフォードなどで学び、インド(現パキスタン)のラホール東洋語学校の校長を務めた。彼は1900年から1916年にかけて3次にわたり、タリム盆地、特にホータンの調査に携わった。また、敦煌莫高窟の番人であった王道士と交渉して、莫高窟の第17窟(いわゆる蔵経洞)に秘蔵されていた写本や仏画を持ち出したことでも知られる。ドイツ隊は1902年から1914年にかけて4次にわたり、西域北道のクチャ、トルファン方面の調査を行った。ドイツ隊の中心人物はアルベルト・グリュンヴェーデルとアルベルト・フォン・ル・コックである。ル・コックがベゼクリク千仏洞やキジル石窟の壁画を大量に切り取ってドイツに持ち帰ったことについては、文化遺産の破壊・略奪であるとの批判がある。以上の人々にやや遅れて探査を開始したのはフランスのポール・ペリオである。彼は若くしてハノイのフランス極東学院の中国語教師を務め、1906年から1908年にかけてクチャ、トルファン、敦煌などの調査を行った。敦煌石窟の窟番号を付けたのは彼である。また、その天才的語学力を生かし、敦煌莫高窟の蔵経洞で写本の調査にあたり、多くの優品をフランスへ持ち帰った。ロシアのセルゲイ・オルデンブルグは1909年から1915年にかけて、2回にわたり、トルファン、カラシャール方面の調査を行った。日本からは、西本願寺の門主であった大谷光瑞を中心とする大谷探検隊が1902年から1914年にかけて3次にわたり西域の調査に出かけている。大谷の目的は大乗仏教東伝の軌跡を実地に調査することであった。 以上の調査隊の将来品は、大英博物館、ロシアのエルミタージュ美術館、ベルリンの国立アジア美術館、パリのギメ美術館とフランス国立図書館などに収蔵されている。大谷探検隊の将来品は、東京国立博物館、韓国国立中央博物館、旅順博物館に分蔵されている。 スヴェン・ヘディン オーレル・スタイン ポール・ペリオ
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