特定非営利活動法人サンハウス
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サン・ハウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 16:17 UTC 版)
サン・ハウス | |
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基本情報 | |
原語名 | Son House |
出生名 | Edward James House Jr. |
生誕 | |
死没 | |
ジャンル | デルタ・ブルース |
職業 | ミュージシャン |
担当楽器 | ギター、ボーカル |
活動期間 | 1930年–1943年、1964年–1974年 |
レーベル | パラマウント、コロムビア |

サン・ハウス(Son House、1902年3月21日[注釈 1] - 1988年10月19日)はアメリカ合衆国のデルタ・ブルースの歌手、ギタリストである。非常に感情移入した歌唱スタイルとスライド・ギターのプレイで知られている。
長年にわたり世俗的な音楽に敵意を抱いていたハウスは、何年か説教師として、また教会の牧師としても働いていたが、25歳のときにブルースのパフォーマーに転向した。彼は説教で培ったリズム、声のパワー、そして力強い感情表現をブルースに応用し、独自のスタイルを築き上げた。ミシシッピ州立刑務所(別名:パーチマン・ファーム)への服役でキャリアは中断されたものの、彼は音楽の才能を磨き、その存在は当時ミシシッピ・デルタ地域のブルース・アーティストの第一人者だったチャーリー・パットンの目にも留まった。彼はハウスをライヴに一緒に出演するよう誘い、また彼の1930年のパラマウント・レコードのレコーディング・セッションにも同行するよう要請したのだった。
レコードの発売は世界大恐慌の始まった頃であったため売れ行きは思わしくなく、全米的な知名度向上にもつながらなかった。地元ではハウスの人気は衰えることはなく、1930年代にはパットンの仲間のウィリー・ブラウンと並んで、彼はコアホマ郡では最も知られたミュージシャンのひとりであった。彼はロバート・ジョンソンやマディ・ウォーターズがアーティストの形を作る上で大きな影響を与えた。1941年と1942年に、ハウスと彼のバンドはアメリカ議会図書館とフィスク大学のためにアラン・ローマックスとジョン・W・ワークによってレコーディングされた。翌年、彼はデルタを後にしてニューヨーク州のロチェスターに移住し、音楽から引退してしまった。
1964年、キャンド・ヒートの共同創設者であるアラン・ウィルソンがハウスを発見し、彼に昔の録音を聞かせた。彼はハウスに音楽活動に戻るように促した。ここから生まれたコラボレーションによって『Father of Folk Blues』が誕生した。ウィルソンは「Empire State Express」でセカンド・ギターを、そして「Levee Camp Moan」ではハープを演奏した。ハウスのマネージャーだったディック・ウォーターマンは「アル・ウィルソンがサン・ハウスを見つけるのを手伝ってくれた」と語っている。ハウスは自身のレパートリーを改めて学び直し、エンターテイナーとしてのキャリアを再度確立したのであった。彼はアメリカン・フォーク・ミュージック・リバイバルの時代にコーヒーハウス、フォーク・フェスティバル、そしてコンサート・ツアーを通じて、主に白人の若者に向けて演奏し、「フォーク・ブルース」歌手として売り出した。彼は数枚のアルバムを録音し、非公式に録音されたコンサートもアルバムとしてリリースされた[1]。2017年には、彼のシングル「Preachin' The Blues」がブルースの殿堂入りしている[2]。
来歴
幼少期から青年期
ハウスは、ミシシッピ州クラークスデール北の集落、ライオンで生まれた[3]。3人兄弟の2番目で、ミシシッピ・デルタの農村部であった。7、8歳の頃両親が離婚するまで、彼はそこに暮らした。父親エディ・ハウス・シニアはミュージシャンで、兄弟たちとバンドを組みチューバを演奏していたが、ときにギターを弾くこともあったと言う。彼は教会の会員であったが、酒飲みでもあり、飲酒の問題で教会を去ることとなった。しかし、結局酒を経ち、バプティストの助祭となった。若きエディ(サン・ハウス)は家族の信仰を受け入れ、教会へ通うようになった。彼はまた音楽の愛好心も家族から引き継いだが、歌うことに専念し、家族の組んでいたインストゥルメンタルのバンドには興味を示さず、信仰心からブルースには敵対心を持つようになった[4]。
ハウスの両親が離婚すると、母親は彼をミシシッピ州ヴィックスバーグのミシシッピ川を挟んだ対岸のルイジアナ州タルーラへ連れていった。彼が10代の最初の頃、彼らはニューオーリンズのアルジアーズに引っ越した。彼は後になってこの頃を回想し、当時のブルースに対する嫌悪感と教会に通うことへの情熱について語っている(彼はこの当時の自身を振り返り、教会的[churchy]、教会化[churchified]していたと説明している。)恐らくまだアルジアーズに住んでいた15歳のとき、ハウスは説教するようになった[5]。
デルタ地帯に住んでいた19歳のとき、彼は年上のニューオーリンズ出身の女性、キャリー・マーティンと結婚した。これはハウスにとって大きな一歩だった。彼は教会で結婚式を挙げたのだが、自身の家族の反対を押し切って踏み切っていた。2人は、キャリーの父親の農場を手伝うため、彼女の故郷、ルイジアナ州センタービルに移住した。その数年後、利用されたと感じ幻滅したハウスは、「彼女を門柱にぶら下げたままにして出て行こうとすると、父親からは『もっと耕さねばらないから戻ってこい』と言われた」と回想した。ちょうどその時期1922年頃、ハウスの母親が死去した。後年になっても彼は当時の結婚生活に憤慨心を持ち続けており、キャリーについて「彼女はニューオーリンズの娼婦の一人に過ぎなかった」と語っている[6]。
ハウスは農作業に限らず、若い頃に就いた数々の単純労働に対してもしばしば不満を抱いた。彼は頻繁に引っ越しを繰り返し、ある時はイリノイ州イーストセントルイスの製鉄所で働いた。その中で、彼が楽しんだ仕事はルイジアナ州の馬牧場の仕事であり、後に彼はパフォーマンスの際にカウボーイ・ハットを被り、当時の経験に思いを馳せたのであった[7]。
20代前半の頃、改宗体験(「入信」)を経て、彼は肉体労働から逃れる道を見つけた。最初はバプテスト教会、その後メソジスト監督教会で有給の牧師として雇用された。しかし、彼は自身の父親同様に酒を飲み、恐らくは女遊びもするなど、聖職に相反する癖を身につけてしまった。数年の葛藤の末に彼は教会を去り、その後は時折説教をすることこそあったものの、フルタイムで教会で働くことはしなくなった[8]。
ブルース・パフォーマーとして
1927年25歳のとき、ハウスはまるで改宗をしたときのように急速かつ劇的な音楽観の変化を経験した。クラークスデールの南に位置する集落で、彼は飲み仲間の一人、ジェイムズ・マッコイあるいはウィリー・ウィルソン(彼の証言はときによって異なった)が、それまで聴いたことのないボトルネック・ギターのスタイルを弾いているのを耳にした。彼はすぐにブルースに対する考え方を変え、フランク・ホスキンズという名のミュージシャンからギターを購入し、数週間のうちに彼にマッコイとウィルソンを加えた形で共演するようになった。マッコイから学んだ2曲、「My Black Mama」と「Preachin' The Blues」は、後に彼の代表作となる。もう一つのインスピレーションの源は、彼よりももっと有名だったルービン・レイシーであった。(彼は1927年にリリースはされなかったがコロムビア・レコードに、1928年に2曲がリリースされたパラマウント・レコードにレコーディングをしている[9]。)驚くほど短期間で、ハウスはたった 4 人のミュージシャンをモデルにし、宗教的な歌唱とシンプルなボトルネック・ギター・スタイルに基づいたブルースのスタイルをプロの水準にまで高めた[10]。
1927年あるいは1928年頃、ハウスがジュークジョイントで演奏していたとき、ある男が銃を乱射しハウスは脚を負傷したため、彼はその男を射殺したとしている[11]。ハウスはミシシッピ州立刑務所(パーチマン・ファーム)での15年の刑を言い渡され、実際に1928年から1929年の2年間服役している[12]。彼は再審査と釈放が実現したのは家族の上訴のおかげだとしたが、彼らが働いていた有力な白人の入植者が介入したことも要因として挙げている[13]。殺人事件の発生日と彼の言い渡された刑期については正確なところはわかっていない。ハウスはインタビューの度に異なる答え方をしており、伝記作家のダニエル・ボーモントはコアホマ郡の裁判所記録、およびミシシッピ州矯正局の公文書を調べたものの詳細情報は何も見つからなかったという[14]。
1929年あるいは1930年初頭の釈放時、ハウスはクラークスデールから退去して戻ってこないように薦められた[15]。彼はコアホマ郡のジョーンズタウンまで歩き、そこから列車に乗ってルラまで行った。ルラはクラークスデールの北16マイル、そしてブルースの中心地アーカンソー州ヘレナから8マイルに位置する小さな町であった。
チャーリー・パットンとの出会い
偶然にも、デルタ・ブルースの偉大なスター、チャーリー・パットンもまた、拠点としていたドッケリーファームから追い出され、ルーラで事実上の逃亡生活を送っていた。サイドマンのウィリー・ブラウンと共に活動し、パットンはプロのブルースマンとして地域シーンで圧倒的な存在感を示していた。パットンは、ハウスがルーラ駅に無一文で到着した際の路上ライヴを見ていたが、当初彼に声をかけることはしなかった。彼は、ハウスが持ち前のショーマンシップで、サラ・ナイトという女性の経営するカフェと密造ウイスキーの店に群衆を引き寄せているのを見ていた。パットンはハウスに対して、彼とブラウンのデュオに加わりレギュラーの共演者となるよう誘った。ハウスはナイトと連絡を取り合い、ハウスとパットンは彼女の密造酒販売に関与することで利益を得るようになった[16]。この共演者関係について、パットンの伝記を執筆したスティーヴン・カルトとゲイル・ディーン・ウォードロウは異議を唱えている。彼らが言うにはハウスのミュージシャンとしての技量は、パットンとブラウンと共演するには不足していたといい、またこの2人は当時疎遠になっていたとの噂もあった。彼らはハウス自身の証言として、彼がルラのダンス・パーティーでは演奏しなかったとしている[17]。ハウスはパットンの友人となり彼と一緒にギグのある先まで同行したが共演はしなかったとボーモントは結論付けている[18]。
レコーディング
1930年、パラマウント・レコードのアート・レイブリーはルラに赴き、パットンに対してウィスコンシン州グラフトンで更なるレコーディングを行なうよう説得した。パットンに同行したのはいずれも同レーベルでのレコーディング経験のあるハウス、ブラウンに加え、ピアニストのルイーズ・ジョンソンであった[15]。ハウスはそのセッションで9曲をレコーディングし、うち8曲がリリースされたが商業的には失敗に終わっている。彼は、その後35年の間商業的なレコーディングを行なうことはなかったが、パットン、ブラウンとの共演は続けた。1934年のパットン死去後もブラウンとの共演が続いている。この間、ハウスはレイクコーモラント地区の大規模農園のトラクター運転手としても働いた。
アラン・ローマックスは1941年、アメリカ議会図書館のためにハウスをレコーディングした。ウィリー・ブラウン、マンドリン奏者のフィドリン・ジョー・マーティン、そしてハーモニカ奏者のリロイ・ウィリアムズがこれらのレコーディングでハウスとプレイした。ローマックは翌1942年にも戻ってきて、再度ハウスのレコーディングを行なっている。
ハウスはその後公の場から姿を消し、1943年にはニューヨーク州ロチェスターに移住してニューヨーク・セントラル鉄道の荷物運搬人や料理人として働いた[12]。
再発見

1964年、ニック・パールズ、ディック・ウォーターマン、フィル・スパイロによるミシシッピ・デルタ地帯での長きに渡る捜索活動の後、ハウスはニューヨーク州ロチェスターの鉄道駅で働いているところを「再発見」された。彼は音楽業界から引退して久しい状況で、1960年代のフォーク・ブルースのリバイバルや、彼の初期の録音に対して世界が熱烈に関心を持っていることなど全く知らなかった。
彼はその後、アメリカとヨーロッパを幅広くツアーし、CBSレコードでレコーディングも行った。ミシシッピ・ジョン・ハートと同様、1960年代の音楽シーンに歓迎され、1964年のニューポート・フォーク・フェスティバル、1965年7月のニューヨーク・フォーク・フェスティバル[19]、そしてスキップ・ジェイムズとブッカ・ホワイトも参加した1967年10月のアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバルのヨーロッパ・ツアーなどで演奏をした。
若きギタリストで後にキャンド・ヒートを結成することとなるアラン・ウィルソンは、ハウスのファンであった。プロデューサーのジョン・ハモンドは当時弱冠22歳だったウィルソンに「サン・ハウスにサン・ハウスらしい弾き方を教えてやってほしい」と依頼した。というのも、ウィルソンが様々なブルースのスタイルを熟知していたからであった。その後、ハウスはアルバム『Father Of Folk Blues』をレコーディングした。これは後になり、『Father Of Delta Blues: The Complete 1965 Sessions』と題された2枚組CDとして再発されている[20]。ハウスはウィルソンとライヴでも共演しており、『John the Revelator: The 1970 London Sessions』に収録された「Levee Camp Moan」などで共演を聴くことができる。
ハウスは、シアトル・フォークロア・ソサエティの企画で1968年3月19日、シアトルでコンサート出演をした。このときの演奏はボブ・ウェストによってレコーディングされ、2006年にアーコラ・レコードからCDでリリースされた[21]。アーコラ盤CDはシアトルで1969年11月15日に行なわれたインタビュー音源も収録している[22]。
1970年夏、ハウスは再びモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演を含むヨーロッパ・ツアーを行ない、このときのロンドンでのコンサートはリバティー・レコードによってリリースされた。彼はまた1974年には、トロントのトゥ・デイズ・オヴ・ブルース・フェスティバルにも出演。アートのテレビ番組「カメラ・スリー」への出演の際は、ブルース・ギタリストのバディ・ガイが彼に同行している。
後年、彼は健康状態が悪化して苦しみ、その結果1974年に再び引退となった。彼はその後ミシガン州デトロイトに移住した。彼は1988年に喉頭癌で亡くなるまでここで過ごしている。彼は1934年にエヴィー・ゴフと結婚。この結婚はハウスにとって5回目で、彼の死去時まで続いている[23]。2人は、ゴフの連れ子のビアトリス、ルーファス、サリーの3人を育てた。ビアトリスはハウスについて「彼はいい父親で私たち3人を育ててくれました。彼が私たちを叱ることはなかったです」と語っている[24]。彼はデトロイトのマウント・ヘイゼル墓地に埋葬されている[25]。デトロイト・ブルース・ソサエティの会員がベネフィット・コンサートを通じて資金を集め、彼の墓に墓石を設置した[26]。
受賞歴
2007年、ブルースゆかりの地、遺跡などをつなぐミシシッピ・ブルース・トレイルの一環としてのハウスの標識がミシシッピ州トゥニカに建立された[27]。2015年には、1965年にハウスが再発見されたニューヨーク州ロチェスターにも標識が設置されている[28]
ハウスは、ブルース・ファウンデーションが1980年に設立したブルースの殿堂の最初の年に殿堂入りをした。また1992年には彼の1965年のアルバム『Father Of Folk Blues』、2007年には同アルバム収録の楽曲「Death Letter」、2017年には1930年の彼の楽曲「Preachin' The Blues」、2023年には同じく彼の1930年の楽曲「My Black Mama」がそれぞれブルースの殿堂入りをしている[2]。
ディスコグラフィー
78回転SP盤
年 | シングル名 | レーベル | 備考 |
---|---|---|---|
1930年9月 | 「Dry Spell Blues Part I」 b/w「Dry Spell Blues Part II」 |
Paramount 12990 | |
1930年10月 | 「Preachin' The Blues Part I」 b/w「Preachin' The Blues Part II」 |
Paramount 13013 | |
1931年2月 | 「My Black Mama Part I」 b/w「My Black Mama Part II」 |
Paramount 13042 | |
1931年8月 | 「Mississippi County Farm Blues」 b/w「Clarksdale Moan」 |
Paramount 13096 | |
1967年 | 「The Pony Blues」 b/w「The Jinx Blues」 |
Herwin 92401 | |
1967年 | 「Make Me A Pallet On The Floor」 b/w「Shetland Pony Blues」 |
Herwin 92404 | ※A面はウィリー・ブラウンのレコーディング |
アルバム
年 | アルバム名 | レーベル | 備考 |
---|---|---|---|
1965年 | 『Father Of Folk Blues』 | Columbia | |
1966年 | 『Living Legends』 | Verve Folkways | ※スキップ・ジェイムズ、ブッカ・ホワイト、ビッグ・ジョー・ウィリアムズとの共同名義 |
1970年 | 『John The Revelator』 | Liberty | |
1975年 | 『Son House – The Real Delta Blues (14 Songs From The Man Who Taught Robert Johnson)』 | Blue Goose | |
1977年 | 『Country Blues Guitar Festival』 | Sonet | ステファン・グロスマン、ジョ・アン・ケリー、サム・ミッチェル、マイク・クーパーとの共同名義 |
1981年 | 『In Concert』 | Stack-O-Hits | |
1991年 | 『Live!』 | Roots | ※ロバート・ピート・ウィリアムズとの共同名義 |
1991年 | 『The Oberlin College Concert』 | King Bee | |
1992年 | 『At Home: The Legendary 1969 Rochester Sessions』 | Document | |
2000年 | 『"Live" At Gaslight Cafe, N.Y.C., January 3, 1965』 | Document | |
2006年 | 『Son House In Seattle 1968』 | Arcola | |
2013年 | 『Daytrotter Presents No. 14』 | Daytrotter | ※ゲイリー・クラーク・ジュニアとの共同名義 |
2022年 | 『Forever On My Mind』 | Easy Eye Sound |
脚注
注釈
出典
- ^ Beaumont, Daniel (2011). Preachin' the Blues; The Life and Times of Son House. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-539557-0.
- ^ a b “BLUES HALL OF FAME - ABOUT/Inductions - Blues Foundation”. Blues.org. 2018年1月21日閲覧。
- ^ Beaumont, p. 27.
- ^ Beaumont, pp. 28–29.
- ^ Beaumont, pp. 30–35.
- ^ Beaumont, pp. 33–34.
- ^ Beaumont, pp. 34–36.
- ^ Beaumont, pp. 36–38.
- ^ Robert Palmer (1981). Deep Blues. Penguin Books. p. 81. ISBN 978-0-14-006223-6
- ^ Beaumont, pp. 39–45.
- ^ Robert Palmer (1981). Deep Blues. Penguin Books. p. 81-2. ISBN 978-0-14-006223-6
- ^ a b Francis Davis (1996). The History of the Blues: The Roots, the Music, the People from Charlie Patton to Robert Cray. Hyperion. pp. 106-109
- ^ Beaumont, p. 49.
- ^ Beaumont, p. 47.
- ^ a b Robert Palmer (1981). Deep Blues. Penguin Books. p. 82. ISBN 978-0-14-006223-6
- ^ Beaumont, pp. 49–52.
- ^ Stephen Calt; Gayle Wardlow (1988). King of the Delta Blues: The Life and Music of Charlie Patton. Rock Chapel Press. pp. 211. ISBN 0-9618610-0-2
- ^ Beaumont, p. 54.
- ^ Du Noyer, Paul (2003). The Illustrated Encyclopedia of Music. Fulham, London: Flame Tree Publishing. p. 160. ISBN 1-904041-96-5
- ^ Davis, Rebecca (1998). "Child Is Father to the Man: How Al Wilson Taught Son House to Play Son House". Blues Access 35 (Fall 1998), pp. 40–43 (写真:ディック・ウォーターマン)
- ^ “Arcola Records, music cds, Traditional Jazz Blues, Son House”. Arcolarecords.com. 2011年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月2日閲覧。
- ^ “KRAB-FM, Seattle - Programs: KRAB has the Blues - King Biscuit Time with Bob West”. Krabarchive.com. 2025年6月18日閲覧。
- ^ Jeff Droke (2011年). “SON HOUSE: APPLICATION FOR ACCEPTANCE – BEALE STREET BRASS NOTE WALK OF FAME”. Jeff Droke, Memphis, Tennessee. 2025年6月19日閲覧。
- ^ Kyle Crocket (2014年). “A Study of the Life and Legacy of Son House on the Identity and Character of Blues Culture”. University of Mississippi eGrove. 2025年6月18日閲覧。
- ^ “Mt. Hazel Cemetery”. DATA DETROIT-Detroit's Open Data Portal. 2025年6月18日閲覧。
- ^ “Memorial Headstone Project”. Detroit Blues Society. 2025年6月18日閲覧。
- ^ “Son House”. Mississippi Blues Trail. 2025年6月18日閲覧。
- ^ “[https://www.hmdb.org/m.asp?m=170963 Son House Delta Blues Comes to Rochester —Mississippi Blues Trail—]”. The Historic Marker Database. 2025年7月15日閲覧。
- ^ “Son House - 78 RPM - Discography”. 45worlds. 2025年6月19日閲覧。
- ^ “Son House Discography: Vinyl, CDs, & More”. Discogs. 2025年6月19日閲覧。
外部リンク
- メンフィスのビール・ストリート・ブラス・ノートによるバイオグラフィー
- ステファン・ヴィルツによるサン・ハウス・ディスコグラフィー
- ブルースの殿堂初年(1980年)の殿堂入り(バイオ執筆:ジム・オニール)
- タンパ・レッドとサン・ハウス at the Wayback Machine (archived 2008-04-11), ナショナル・レゾフォニック・ギターの歴史 Part 3
- スミソニアン・フォークウェイズのディスコグラフィー
- サン・ハウス - オールミュージック(バイオ執筆:カブ・コーダ)
- サン・ハウス - Discogs
- サン・ハウス - IMDb
- スタッズ・ターケルによるサン・ハウス・インタビュー ターケルのラジオ番組で1965年4月19日放送
- ボブ・ウェストによるサン・ハウス・インタビュー、1968年3月16日
サンハウス
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サンハウス | |
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出身地 | ![]() |
ジャンル | ブルースロック |
活動期間 | 1970年 - 1978年 |
レーベル | BLACK |
公式サイト | HELLO!! SONHOUSE |
メンバー | |
旧メンバー |
サンハウス (SONHOUSE) は、1970年に結成された日本のブルースロック・バンドである。
メンバー
- 菊(柴山俊之)
- ボーカル、ハーモニカ担当。結成時から解散まで在籍。
- 鮎川誠
- ギター、ハーモニカ担当。結成時から解散まで在籍。
- 奈良敏博
- ベース担当。1973年1月から1977年10月まで在籍。1970年冬頃、臨時メンバーとして参加していた。
- 松田優作からの信頼も厚く、脱退後は“松田優作with EX”のメンバーとして活動。
- シーナ&ザ・ロケッツのデビュー前のオリジナルメンバー。1988年に復帰。1989年発売アルバム『DREAM + REVOLT』リリース後に脱退。2011年復帰。現在まで活動中。
旧メンバー
- 篠山哲雄
- ギター担当。結成時から1976年12月まで在籍。
- 浦田賢一
- ドラムス担当。結成時から1974年2月まで在籍。
- アルバム『CRAZY DIAMOND』(1983年)にクレジットされている。サンハウス脱退後は、SHOT GUN、HAKATA BEAT CLUBで活動。博多時代から交流のあった武田鉄矢の薦めもあり、俳優としても活動。代表作はドラマ『3年B組貫八先生』。2003年に公開された映画『ROCKERS』では、主人公の父親役を演じた。
- 後藤龍一
- ベース担当。結成時から1971年1月まで在籍。
- 浜田卓
- ベース担当。1971年4月から1973年1月まで在籍。
- 坂田紳一(鬼平)
- ドラムス担当。1974年3月から1977年10月まで在籍。
- 川嶋一秀
- ドラムス担当。1977年10月から解散まで在籍。
- 浅田孟
- ベース担当。1977年10月から解散まで在籍。
- 坂東嘉秀
- ギター担当。1977年10月から解散まで在籍。
概要・来歴
バンド名の由来はアメリカ合衆国のブルース歌手サン・ハウスの名前から鮎川誠が名付けた。
アタックというバンドで演奏していた篠山が久留米のダンスホールに出演していた時、鮎川と知合う。アタックに鮎川も参加し、しばらくホールに出演演奏をするが、アタックはメンバーの音楽に対する意見の食い違いにより解散。その後鮎川が中洲のダンスホール「美松」でアルバイトを始める。その時のバンドマスター福間より制服のスーツを作れといわれ鮎川はそれが嫌で篠山に交代を頼む事に。その事で篠山がそのバンドで演奏する事になった。しかし福間は篠山の演奏が気に入らず、その時博多駅前に新しく出来るダンスホール「ハニー・ビー」に新しくバンドを組んで出演するよう篠山に仕事を斡旋。篠山は、やりたい音楽が出来ると鮎川を誘いメンバーをさがす、ボーカルは鮎川が少し前に知り合っていた柴山(後の菊)を篠山に紹介、三人は博多の喫茶店で「ブルースをやるバンドをやろう」と話し合った。福岡県にてホールなどで歌っていた当時大学生の菊こと柴山がブルースギターを弾く久留米市から来た大学生、鮎川と出会い結成。
1975年、テイチクレコード/BLACKより1stアルバム『有頂天』にてメジャー・デビュー、日比谷野外音楽堂にてデビューライブ敢行。その後、ゴダイゴやCharと共に全国ツアーを回る。
3rdアルバム『ドライヴ・サンハウス』の発売と同日の1978年3月25日、解散を決定。解散後、柴山は作詞家としてシーナ&ザ・ロケッツ、ルースターズ、アクシデンツ、UP-BEATなど福岡県、北九州のバンドに詞を提供。鮎川は妻シーナと共にシーナ&ザ・ロケッツを結成。奈良敏博(Ba)、後期メンバー川嶋一秀(Dr)、浅田孟(Ba)を従えて活動。
1982年、12月31日、新宿ロフトでの企画ライブに出演。柴山俊之(Vo)、鮎川誠(Gu,Vo)、浅田猛(B)、花田裕之(Gu)、川嶋一秀(Dr)のメンバーで、サンハウス時代のナンバーを演奏。実質はシーナ&ロケッツが柴山のバックを務めたこの時の映像は、非公式(海賊盤)で1990年代に『PREVIOUS LIVE/SONHOUSE』として発売された(10曲収録・VHS)が即回収されている。

1983年、サンハウス再結成。以下4箇所でライブを行う。東京(6月18日 渋谷LIVE INN、9月23日 日比谷野外音楽堂)、福岡(8月7日 福岡Super Live '83 小戸公園)、仙台(8月11日 ロックンロールオリンピック)。メンバー:柴山俊之(Vo)、鮎川誠(Gu)、奈良敏博(Ba)、浦田賢一(Dr)。日比谷野外音楽堂での演奏は、『CRAZY DIAMONDS〜ABSOLUTELY LIVE』というタイトルで、LPとカセットテープ2形態で同年11月25日にリリース。カセットテープは全20曲完全版であったが、LPは12曲収録であった。1990年8月21日にビクターから同タイトルのCDがリリースされるが、CDの収録分数の関係で18曲収録に留まり(「ロックン・ロールの真最中」「ミルク飲み人形」が未収録)、長く完全版が揃わない音源となっていた。2008年8月20日、紙ジャケ仕様の2枚組CDがリリースされ、漸くカセットテープと同じ20曲を収録した完全版となった。カセットテープ・LPでは「ステディ・ドライバー・マン」の歌詞が数箇所、断片的にテープ逆回しで処理されているが、CDではその処理は行われていない。
2010年、3度目となる再結成を果たし結成35周年を記念して全国5箇所のツアーを行った。2015年9月12日、サンハウス初期のメンバー、柴山、鮎川、奈良、浦田の4人で、鮎川主謀のライブ「マディ・ウォーターズ生誕100年祝賀祭」のために再び結集(イベントの出演は、シーナ&ザ・ロケッツ、サンハウス、永井"ホトケ"隆)。その際のライブ音源は2016年3月に『TIGER IN YOUR TANKーマディに捧ぐ』というタイトルでライブ盤としてCD(17曲収録)で発売。同年シーナ&ザ・ロケッツデビュー38周年を記念して博多で再結集。シーナ&ザ・ロケッツ、サンハウスの2バンドで11月28日福岡ドラムロゴスにてライブを行う。このライブの為にサンハウスの全盛期のメンバーで再集したサンハウスのリハーサルテープは40周年を記念して『サンハウス / HAKATA』としてCD化された。
2016年4月7日、「シーナの日」にシーナ&ザ・ロケッツ、サンハウス(菊、鮎川、奈良、篠山、鬼平)の2バンドで2日間ライブを行った。2日間のセットリストは、鮎川の運営するROKKET WEBにアーカイブとして残されている。
2022年鬼平の呼びかけで数年ぶりに鮎川と奈良が結集し一夜限りのサンハウスを演奏するライブを4月に開催。翌月5月2日の鮎川誠の74thバースディライブでも鬼平がゲストとしてシーナ&ロケッツに出演したことから、サンハウスの47周年目を自ら祝いたいという趣旨のもと、鮎川誠 Play The SONHOUSEを始動。メンバーは、鮎川誠(Vo,G)、奈良敏博(B)、鬼平(Dr)、松永浩(SideG)、LUCY(Vo,Harp)。福岡、東京、京都、岡山にてツアーを行い、2枚組のライブ盤「ASAP」を発売した。
作品
シングル
- 地獄へドライブ/キングスネークブルース (1975年1月15日)自主制作盤
- ロックンロールの真最中/レモンティー (1975年6月25日)
- 爆弾/雨
- 夢みるボロ人形/あの娘は18才 (1975年11月25日)
アルバム
- 有頂天 (1975年6月25日)
- 仁輪加 (1976年6月25日)
- ドライヴ・サンハウス (1978年3月25日) - ライブ盤
- STREET NOISE (1980年) - 未発表曲集
- CRAZY DIAMOND (1983年) - ライブ盤
- POISON (1983年) - ベスト盤
- HOUSE RECORDED (1991年) - ブートレグ
- Back To The Live 1972 (1991年) - ライブ盤 ※ブートレグ
- Highway '61 Vol.1&2 (1994年) - 未発表曲集 ※ブートレグ
- ROCKIN' BLUES BEFORE SONSET (1998年9月2日、1974年 京都・拾得LIVE) - 全曲集ボックス・セット
- 風よ吹け (2000年) - 1998年ライブ盤(CD/VHS/DVD)
- SONHOUSE TWIN PERFECT COLLECTION (2001年12月19日) - 全曲集
- THE CLASSICS 〜35th ANNIVERSARY〜(2010年) - 全8枚組ボックス・セット(CD:7枚/DVD:1枚)
脚注
出典
外部リンク
- HELLO!! SONHOUSE - 鮎川によるアーカイブ
- サンライズ2000ウェブサイト
- サンハウス35th ANNIVERSARY
固有名詞の分類
- サン・ハウスのページへのリンク