ゲーテとの出会い、バッハの復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:50 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「ゲーテとの出会い、バッハの復活」の解説
1821年に、ツェルターは同時代の友人で書簡をやり取りする間柄だった文豪ゲーテにメンデルスゾーンを紹介した。この少年にいたく感銘を受けたゲーテは、ツェルターとの会話の中でモーツァルトとの比較を行っているが、これは確認できるものとしては最初期のものであろう。それは次のような内容である。 「音楽の神童(中略)は、もはやそれほど珍しいものではないだろう。しかし、この少年が即興でしていること、初見でする演奏は奇跡という次元を超えている。私はあれほど幼くしてこれだけのことが可能だとは思ったことがなかった」「あなたはモーツァルトが7歳の時フランクフルトで演奏するのを聴いたのでしょう?」とツェルターが問う。ゲーテは「そうだ」と答えてこう続けた。「(略)しかし君の生徒が既にやっていることを当時のモーツァルトに聴かせるのだとしたら、それは大人の教養ある話を幼児言葉の子どもに聞かせるようなものだよ」 メンデルスゾーンはその後何度かゲーテに招かれて会っており、ゲーテの詩の多くに曲をつけている。ゲーテに霊感を受けて作曲された作品には他に序曲「静かな海と楽しい航海 Op.27」とカンタータ「最初のワルプルギスの夜 Op.60」がある。また、メンデルスゾーンは1825年に作曲した「ピアノ四重奏曲第3番ロ短調 Op.3」をゲーテに献呈している。 1829年、ツェルターの後ろ盾と俳優エドゥアルト・デヴリエントの協力を得たメンデルスゾーンは、ベルリンにおいてバッハの「マタイ受難曲」を編曲、自らの指揮により蘇演を果たした。この4年前に彼は祖母のベラ・ザロモンから、この当時はほぼ忘れられていた名曲の草稿の写譜を手に入れており、演奏に際しては、管弦楽と合唱をベルリン・ジングアカデミーが務めることになった。1750年にバッハが没してから初となるこの演奏の成功は、ドイツ中、そしてついにはヨーロッパ中に広がるバッハ作品の復活につながる重要な事件だった。この公演は、バッハのマタイ受難曲が難解であることに加えて、聴衆が興味を示さないという問題があったが、慈善公演として成功させた。利益は、貧しい少女のための裁縫学校の設立に使われた。当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評された。メンデルスゾーン自身もルーテル派であり、バッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていた。この成功により、メンデルスゾーンの名声は20歳にして広く知れ渡った。またこの時に、彼としては珍しく自らの出自に関して言及している。「それを考えると、キリスト教徒の最も偉大な音楽を世界に蘇らせるには、俳優とユダヤ人の息子が必要だったということになりますね!」 続く数年間、メンデルスゾーンは広く演奏旅行に出かけた。中には最初の訪問となった1829年のイングランドや、ウィーン、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ナポリなどを含む様々な都市が名を連ね、彼は行く先々で現地の、もしくは訪ねてきた音楽家や画家と出会っている。この数年の旅先で得た着想が「フィンガルの洞窟」、「スコットランド交響曲」、「イタリア交響曲」など、彼の作品の中でも最も有名な曲へと結実するのである。
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