グレイ伯爵グレイ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 17:53 UTC 版)
初代グレイ伯の父であるヘンリー・グレイ(1691-1749)は、1738年にノーサンバーランド州ハイ・シェリフ(英語版)を務め、1746年1月11日にはグレートブリテン準男爵位の(ノーサンバランド州におけるホーウィックの)準男爵(Baronet "of Howick in the County of Northumberland")に叙せられた。彼の死後、2代準男爵となったのは息子のサー・ヘンリー・グレイ(1722-1808)で、1754年から1768年までノーサンバーランド選出の庶民院議員となった。 2代準男爵の弟であったチャールズ・グレイは陸軍軍人で、七年戦争・アメリカ独立戦争・フランス革命戦争で戦い、1796年には陸軍大将に任じられた。彼は1801年6月23日に連合王国貴族爵位ノーサンバーランド州におけるホーウィックのホーウィックのグレイ男爵(Baron Grey of Howick, of Howick in the County of Northumberland)、続いて1806年4月11日にグレイ伯爵およびノーサンバーランド州におけるホーウィックのホーウィック子爵(Viscount Howick, of Howick in the County of Northumberland)に叙された。これがグレイ伯爵家の創設となった。 2代伯となったのは初代伯の成人した最年長の息子のチャールズ・グレイ(1764-1845)である。父親から相続した爵位に加え、1808年3月30日には未婚だった伯父のサー・ヘンリーから準男爵位も相続した。またこの際にホーウィックを相続する代わりにファラドンに関する権利は放棄している。彼はホイッグ党の政治家で、1830年から1834年までのホイッグ党政権において首相を務め、第一次選挙法改正(英語版)(腐敗選挙区の廃止や有権者の拡大)、救貧法改正(院外救済の廃止と救貧院における「劣等処遇の原則」の適用)、都市自治体改革(市政の中心を寡頭的な参事会から選挙で選出されるタウン・カウンシルへ移行)、工場法改正による児童労働の時間制限、植民地を含めた大英帝国全体における奴隷制廃止などの治績を挙げた。 初代伯の三男(2代伯の弟)のジョージ・グレイ(英語版)(1767-1828)は、1814年に(ファラドンの)準男爵に叙されており、この分流の系譜からは1905年から1916年にかけて外相を務めたファラドンの初代グレイ子爵エドワード・グレイ(1862-1933)が出る。 2代伯が死去すると、その成人した最年長の息子であるヘンリー・グレイが襲爵した。彼もホイッグ党の政治家で、ジョン・ラッセル卿の第1次内閣(英語版)に陸軍・植民地大臣として入閣した。 3代伯には子供がなかったため、弟サー・チャールズ・グレイ(英語版)陸軍大将の息子であるアルバート・グレイが伯位を相続した。彼は自由党(後に自由統一党)所属の政治家で、はじめ庶民院議員となり、襲爵によって貴族院に移った。1896年から1898年まで南ローデシア行政官(英語版)を、1904年から1911年までカナダの総督を務めた。総督在職中の1907年には日本の皇族である伏見宮貞愛親王のカナダ訪問を手配した。またカナディアン・フットボール・リーグのプレーオフ優勝チームに与えられるグレイ・カップは彼が寄贈したものである 5代伯となったのは4代伯の長男のチャールズ・グレイ(英語版)(1879-1963)である。5代伯には男子がなかったため、1963年に彼が死去した時、ホーウィック・ホールの所有権は彼の娘メアリー・セシル・グレイ(Mary Cecil Grey, 1907-2002)に移ったが(2019年現在は彼女の息子であるグレンデールの第2代ホーウィック男爵チャールズ・ベアリング(英語版)とその妻が所有)、男系男子に限定されるグレイ伯爵位は3代伯やサー・チャールズ陸軍大将の弟のジョージ・グレイ海軍大将(1809-1891)の玄孫であるリチャード・グレイ(英語版)(1939-2013)が相続した。6代伯にも男子がなかったため、爵位は弟のフィリップ・グレイ(英語版)(1940-)が相続した。2019年現在のグレイ伯爵も彼である。 現在のグレイ伯爵はデヴォン・キングスブリッジ(英語版)のベル・クロス・ロード(Belle Cross Road)にあるヴァレリー・コテージ(Valley Cottage)に在住している。
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