都市自治体改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 22:05 UTC 版)
「チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)」の記事における「都市自治体改革」の解説
イギリスの都市自治体は多くがテューダー朝、ステュアート朝期に勅許状によって成立したものであるが、これらの都市自治体の住民は自由民と非自由民に別れていた。市政の中心である参事会をはじめとする都市自治体の役職に付くことができるのは全住民の1割にも満たない自由民のみであった。自由民は旧家のジェントルマンや商人であり、トーリー党支持者であることが多く、対する新興ブルジョワや非国教徒などホイッグ支持層は非自由民であることが多かった。そこでグレイ伯爵内閣はトーリーの支持基盤を切り崩す意味でも都市自治体改革を目指した。 1833年にこの問題についての王立委員会を設置して調査を行わせ、その調査結果に基づいて法案を作成した。同法案が可決に至ったのはグレイ伯爵退任後の1835年であったが、これによって次のような改革が実現した。まず178の都市自治体が廃止されて新たな都市自治体に改組された。有力自由民の互選による参事会に代わる市政中心機関として公選制の市会(英語版)が設置された。市議会議員選挙権はその都市に家屋を占有し、3年間救貧税を払っている成人男性とされた(第一次選挙法改正の庶民院選挙権よりもかなり広い)。市長選出は市議会議員の選挙によるとした。この法律は、都市自治体の市政が閉鎖的・寡頭的体制から、代議制の開かれた体制へと移行していく第一歩となった。 もっともトーリーの反発への配慮もあって、寡頭制の残滓はある程度残さざるを得なかった。たとえば市会議員になるためには、1000ポンド以上の動産もしくは不動産所有者であることと救貧税30ポンド以上の納税者であることを要したし、治安判事の任命権は市長ではなく国王に温存された。自由民の既得権も守られたし、参事会も完全廃止されず、参事会が市会の四分の一を構成し続けた。またロンドン市はこの法律の対象外であった。
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