グリニッジ・ヴィレッジへの帰還(1940年-1982年)
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「ジューナ・バーンズ」の記事における「グリニッジ・ヴィレッジへの帰還(1940年-1982年)」の解説
バーンズはほかに行く所も無く、セルマ・ウッドが町から出ている間そのアパートメントに滞在し、次の2ヶ月間はエミリー・コールマンとその恋人ジェイク・スカーボローと共にアリゾナ州の労働牧場で過ごした。バーンズはニューヨークに戻ると、9月にグリニッジ・ヴィレッジのパッチン・プレイス5にある小さなアパートメントに移り住み、そこでその後の人生42年間を暮らすことになった。1940年代を通じて大酒を飲み続け、実質的に何も書かなかった。グッゲンハイムは心配していたものの僅かな手当を支払い続け、コールマンはそうする余裕はあまりなかったが、月ごとに20ドルを送った(2011年なら310ドル)。1946年、バーンズは原稿閲読審査者としてヘンリー・ホルトに雇われたが、その報告はいつも辛辣だったし、バーンズは間もなくクビになった。 1950年、バーンズはアルコール依存症のために芸術家としての能力が生かせないと悟り、詩劇『交唱』を書き始めるために断酒した。この戯曲はバーンズ自身の家族の歴史を多く利用し、その執筆は怒りによって燃料を与えられた。バーンズは、「わたしは『交唱』を歯を食いしばって書いた。私の筆跡はダガー(短剣)なみに荒れていると気付いた」と言った。バーンズの弟サーン(1890年6月生まれ)はこの戯曲を読んで、「何かずっと前に死んで忘れられるべきものに対する復讐」を欲しているとしてバーンズを非難したが、しかしバーンズは彼の手紙の余白に自分の動機として代わりに「正義・公平さ」justiceと書き、彼が書いた「死んで」 dead という言葉の次に「死んではいない」not deadと付け足した。 『交唱』の後はバーンズは詩作に戻ったが、それを書いては書きなおして500篇にもおよぶ草稿を作った。彼女は、長くなる健康問題一覧表にもかかわらず1日に8時間書いたが、その一覧表の中には重症の関節炎もあり、バーンズがタイプライターに向かって座ることや机の灯りを点けることも困難になった。これらの詩の多くは完成されず、バーンズの生前に出版されたものは数少なかった。 パッチン・プレイス時代のバーンズは悪名高い世捨て人となり、だれでも自分がよく知らない者には強い猜疑心を抱いた。通り向こうに住んでいたE・E・カミングスが定期的に窓越しに「まだ生きてるかい、ジューナ」と叫んで安否を確認した。レズビアンの作家バーサ・ハリスは郵便受けに薔薇の花を入れておいたが、会うことはかなわなかった。カーソン・マッカラーズは玄関前の階段にキャンプを張ったが、バーンズは「このベルを鳴らす者は誰でも地獄にお行きなさい」と叫んだだけだった。アナイス・ニンは、バーンズの作品、特に『夜の森』の熱狂的なファンであった。アナイス・ニンがバーンズに数回にわたって手紙で女性作品の雑誌に参加するように招いたが、返事はなかった。 彼女はアナイス・ニンを軽蔑したままで、彼女を避けるために通りを横断したものであった。 バーンズはアナイス・ニンが登場人物にジューナと名付けたことに腹を立て 、フェミニストの書店ジューナ・ブックスがグリニッジ・ヴィレッジに開店した時、名前を変えるように電話で要求した。バーンズは、自分とマリアンヌ・ムアが若かった1920年代以来、マリアンヌ・ムアを終生、愛していた。バーンズは最後には痛烈であったが、しかし、ときどきは恐ろしい、外見の下では、彼女はあたたかく、常に面白く、ほとんどシェークスピア的な語彙をそなえていた(あまり正式の教育を受けなかったにもかかわらず) バーンズには他にも女性の恋人がいたが、後年には「私はレズビアンではない。わたしはただセルマを愛しただけだ」と主張していることが知られていた。 バーンズは1961年にアメリカ国立芸術文学研究所のメンバーに選ばれた。1982年にニューヨークで死んだ時、モダニズム英文学の第1世代では最後の生き残りだった。
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